夏が旬のインゲン豆なのに、その記念日は春爛漫の4月3日。
それは、これを大陸から伝えた禅宗の僧・隠元さんのご命日が1673(延宝元)年のこの日だから。
とすれば、その伝来の過程はどうだったのか気になります。
ちょっとだけ調べてみましたのでよろしかったら。
隠元さんてどんな方?
隠元さんは、1952(文禄元)年、中国大陸の南方、福建省福州府で生まれた方です。
出家後は、様々に修行を重ね、明国の禅界の重鎮として活躍するまでとなり、もちろん、当時、その名声は日本にも伝わっていたほどの、尊い高僧。
しかし、長崎の興福寺に招かれて来日したのは、63歳ともうずいぶんと高齢になったころでした。
江戸時代の当時、日本では禅宗が衰退。
それを案じた僧達により、3年の約束での招聘されたのだそうですが、隠元を慕う人々は日増しに多くなり、影響力も強くなってゆきます。
やがて、長崎から江戸に上がり、4代将軍徳川家綱に謁見することにまでなって、将軍から「日本にとどまるように」とお墨付きまでいただいてしまいます。
永住を決意した隠元さんは、京都に黄檗宗の総本山・万福寺を開山するにいたり、日本三禅宗のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖となったのです。
こうして隠元さんは、日本の地での晩年を生き、他の禅宗にも大きな影響を与え、81歳で亡くなるまで広く人々に慕われ尊敬されたそうです。
大陸の文化からも、隠元豆のほかにも様々なものを日本に伝え、たとえば、煎茶道の始祖としても有名な方でもありました。
飢饉を救った隠元豆
さて、隠元豆ですが、隠元さんは、禅宗の精進料理のレシピも多数伝え、たとえばそれは、胡麻豆腐、胡麻和え、けんちん汁とか。
隠元豆は、最初、この精進料理の材料として持参してきたものなのだそうです。
しかし、たびたび飢饉の起こった江戸時代の日本にとって、どんな荒地でもすくすく育つ丈夫な隠元豆は、飢えた民にとっての救世主でもありました。
栄養価も高い上に、鞘からはずした豆は乾物としても保存も可能。
この食材は精進料理の枠を飛び出して、多くの民の命を繋ぐ食材として、そのまま全国に広がっていきます。
神話の世界で、保食神(うけもちのかみ)のカラダから生まれたありがたい豆でさえ、その名は、「小豆」に「大豆」。
その他、枝豆、黒豆…と、主だった豆が、その姿カタチのまんま名づけられたのに対し、この豆だけが高僧の名を冠された理由。
これは、勝手な想像ですが、その名にこそ、江戸人の感謝のココロがこめられているのかもしれません。