雨の季節に、必ず思い出される一冊の本『空の名前』/旧5/26・乙丑

入梅したかいなやで、過激な雨降り。
晴れれば、照り付ける日差しが強すぎて、暑さに慣れていない身としては、疲労の具合が半端なく…。

今年の梅雨の季節は、あまり外出に適さないみたいですね。

そんな季節に、ふと思い出して書棚を探す一冊の本があります。

20110601空の名前

高橋健司さんの『空の名前』。

この本は、多くの人に愛着を持って大切にされ、そばにおいて時折に眺められている。
たぶんそんな本だと思います。

青く澄んだ空の表紙を空ければ、第一章は雲の章。
ついで、水、氷、光、風、季節の5章分がつづき、春から一巡する季節がさまざまに美しい写真と言葉で彩どられています。

しかし、不思議なことに、ふと手にして読みこむことが多いのは、絶対的に今頃の雨の季節。

入梅すぎたあたりに、ふと思い出して書棚から取り出してみるのも実は、毎年のこと。
しばらくの間は、手に届くところに置いてあり、梅雨が明けるとともに、なんとなく書棚に戻すの繰り返しです。

目当ては、「水の章」に並ぶ美しい雨の名前。

ぐずつく天気を眺めながら外出する気にもならなくて、今日の雨の名前はたぶんこれだろうか…と当てはめて遊ぶ。
『空の名前』のおかげで、梅雨の季節とずいぶん仲が良くなったような気さえしてくるものです。

さて、その『空の名前』の水の章。

まずは、「雨」は「雲から落下する水滴」と、その定義からはじまって、「降り方“驟雨”とか“地雨”とは言うし、1時間に何ミリ降るかで、弱い、並、強い雨とは言うけれど、「大雨」「豪雨」という言葉は感覚的なもので、雨量や強さの基準はない」と解説されてる。

まずは、なぜだか、毎回、凝りもせずにここで「へーっ」と感心。

毎回感心するのみで覚えていないのは明白で、読むのは、もう今年で何回目なんだろう。
毎年この季節だけ読み散らして、あとは、きれいに忘れていることに、やや驚く始末です。

次に続くのは、おびただしい数の「雨の名前」。

一部、ここに並べてみましょうか。

「驟雨」あるいは「俄(にわか)雨」、しとしとと降る「地雨」「霧雨」「小糠雨」

「春時雨」「春雨」「春霖(しゅんりん)」「菜種梅雨」「梅若の涙雨」と春の雨の名も結構多い。

そして、今ぐらいの季節に入れば、草木を潤す雨の名が続き、青葉にかかれば「翠雨(すいう)」「緑雨」、麦の熟するころには「麦雨」、穀物の成長を助けて「瑞雨(ずいう)」、草木に降って「甘雨」という具合。

ためしに、全部数えてみたら、なんと純粋なる雨の名前だけで70個もありました。
他にも、雨にまつわる季節のことば、たとえば「入梅」とか「雨乞」とかや、霧、靄の類の言葉まで入れてトータル90個。

いったい、どこのどなたがいつ頃こんなに命名くださったのやら。

わが先人たちは、「雨」という事象ひとつも細かく眺め、根気よくその違いを見つけて、しかも美しい言葉を選んで名づけた。
そういう行為に大いなる感動とか…を通り越し、もしかしたら畏怖…を感じるばかり。

いや、畏怖を感じていたのは名づけた先人のほうかもしれず。
畏怖する自然に、せめて美しい名をつけ、少しだけでも親しもうとしたのかもしれません。

名前をつけるという行為は不思議なチカラをもっています。

都会に住んでいると、自然の事象に鈍感になって、家にこもって眺める雨は、やはりただただ単調に鬱陶しさしきり。
しかし、時々こうして本にあたって今日降る雨の名前を探せば、雨もとっても慕わしいものに様変わりをします。

名前を知るって不思議ですね。

梅雨の頃を時々こうして『空の名前』とともにすごして、やがて来る夏。
そしたら、今度は第一章にもどって、雲も風も氷も光も、きちんとその名を知る努力をしてみよう!

今年は、ちょっと小さな決意をしてみました。

そんな風に思って、ふと本から顔を上げれば、また雨です。

近ごろは、降り始めれば「豪雨」の日が多く、今年も各地に被害をもたらした雨がありました。

ほんらいならば、日本の雨季は、しずしずと降って、遠くの緑が潤って見える「緑雨」とか「翠雨」とか。
そんな美しい名で呼ぶ雨が似合う日々のはずなんですが…。

もしも、現代の日本人も、森羅万象に名前をつけて慕わしく寄り添って暮らしてきたならば、おそらくやってこなかった変化なのかも…などとふと。

時々、雨や風が、恐ろしいモノに姿を変えてやってくるのは、私たちヒトの愚かさが、撒き散らした種のせいなのかもしれません。

◆今日は、2014年6月23日/旧暦5月26日/皐月乙丑の日