はるか昔の『日本書紀』が語る時代。
天智天皇十年の四月辛卯条、つまり旧暦4月25日に、水で時刻を測る水時計が設置され宮中に初めて「時間」が告げられました。
わが国の時報の始まりとも言えるこの日は、今の暦に直すと、671年6月10日。
今日6月10日の「時の記念日」は、かなり由緒ある由来をもった日なんですね。
時の記述を『日本書紀』から拾ってみると
巻第二十七 天智天皇 天命開別天皇の項の十年夏四月二十五日のところに
「漏刻を新しい台の上におき、はじめて鐘・鼓を打って時刻を知らせた。この漏刻は、天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという、云々。」(『全現代語訳 日本書紀 下巻』 宇治谷孟のP237)とあります。
「漏刻」は、水を流して溜まった水量で時間を測る「水時計」のこと。
そして「漏刻」は、天智天皇が、まだ皇太子だった中大兄皇子と呼ばれた時代に自ら作ったという説もありますが、この皇子こそは、645年の大化の改新の中心人物です。
その改革は、唐の律令制度に倣って法律を作り施行することをはじめとし、さまざまな政治改革を成し遂げた。
それは歴史教科書でもおなじみの事実で、その立役者が、一方でこんなこともしていたのもちょっと驚きのような気もします。
といっても、「法」を作り「制度」を敷くことと、「時刻」を正確に測り知らせることはとても似ているかもしれません。
いずれも、それらを広く尊守させることで国を律する道具でもあって、ことに「時」を律することは、自然の一部に過ぎなかった人間が、それらによって少しずつそこから切り出されはじめる輝かしくも悲しい歴史のはじまりだったかもしれません。
天智天皇10年に時を告げた「漏刻」というのは、どんなもの?
実は、この時の漏刻がどのようなものであったのか、文献には全く記載がないそうです。
しかし、後の時代に絵や文献に描かれたものが残っていたり、同種類のものが発掘されて、それらをもとに復刻されたものもあり、案外あってそこから詳しく想像することが可能です。
たとえば、これなんかどうでしょうか?→奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部のサイト<飛鳥の水時計>
まず、全体像としてのそれは、四角い水槽のようなものを階段状に高低をつけて並べ、そうして一番高い水槽に水を注ぎ、順次低い水槽へ水を流入させるようなもの。
これは、水をの流れを極力一定の速度に抑える工夫で、そうして水は同じ速度で流れ、最後の「水海」とよばれる水槽に貯められます。
時刻は、その「水海」に溜まった水位を元に決められる。
…というか測るのですが、面白いのは、「水海」には、なぜか人形がすまし顔でたっているところ(笑)。
人形は、「水海」に水が溜まるに従い浮上するようになっていて、その人形が「ここまで水が着たら何時」とわかるようにメモリを書いた物差しのようなものをさしている。
そして、ちょうど人形が指差したところが今の時刻…といった仕組みのようです。
それは、こちらの図には、確かにものさしみたいなのが、人形の前にたっていますね→国立天文台暦Wiki(ページの一番上の右端の図です)
天智天皇が祭られている近江神宮のサイトにも詳しい解説があります。→漏刻について
おそるべき「漏刻」の使われ方
はじめて時を刻んだ「漏刻」は、器械というより、見かけで言えば、飾り物に近い。
しかし、刻む時間は、けっこう正確だったんだそうです。
もちろん、振り子やバネもまだ発明されない時代ですから、動力は、すべて「人力」。
水の補給や排水やら、さらに水槽の水にごみが溜まっただけでも正確さに欠くので濾過する必要もあったようだし、暑い寒いで流水速度が変わったり、水が凍ったり…と、その対策も必要。
その保守メンテナンス要員やら、「漏刻」を警備するものまでいたらしい。
さらに、そのトップには、「漏刻(ろうこく)博士」という要職が配され、時刻を確認し、鐘を鳴らすタイミングを指示した。
うーん、凄そうな感じになってきました。
しかし、もっと驚くべき事実があって、こんな大掛かりなものを、天皇行幸時には持ち歩いたんだそうです!
もちろん、その時計の計測&保守管理警備もろもろのため漏刻博士とともに十数人がそれだけのためについていった。
…いやはや、「時刻を測る」ということが、ずいぶんとまた大掛かりな時代だったもんです。
記念日の制定は、もっとずっと近代の大正9(1920)年
由来はこんな風に古い時代のコトですが、制定は近代までさかのぼります。
制定者は、東京天文台と生活改善同盟会で、「時間の大切さを尊重する意識を広めるため」にと設けられたそうです。
時間の大切さを尊重…とは、「時間を守ろう」ということでしょうか?
とはいっても、まだ時計は貴重品。
時計を持っていたとしてもそれは手巻きでよく遅れただろうし、まだまだTVやラジオの時報などはもちろんなかった。
当時、正確な時間は、空砲を撃って知らせる「午砲(ごほう)」が一般的な時代。
あるいは、汽車の発着する停車場などで正確な時間を確認したのでしょうか。
「時間を守れ」といっても、現代の一分一秒に追われる時代と比べれば、なんだかまだまだのどかな感じがするというものです。
水や日光の具合で時間を測る古代から近世まで、のちに振り子時計やゼンマイ時計が発明されて、人が時間を管理する方法がずいぶん革新的に便利になっても、ここまではまだ、根っこは同じところにあったような気がします。
時は、過去・現在・未来と長く連なるもの自然悠久のものに違いなく、人がそこに侵食することなく「時」と仲良く折り合っていた気がするというものです。
時をデジタルでカウントし、時間に振り回される現代
「時の記念日」に際して、時計がまったく機能しない1日があったらどうだろう…などと、考えてみます。
夏至の日に、電灯を消してキャンドルナイトを楽しむように、日の出と日の入、太陽の動きだけを相手に1日を過ごす。
街の時計という時計は、夜中の12時に一斉に止められ、TVもラジオも全部お休み。
1日の時の流れを太陽の動きや空気の暑さ冷たさにゆだねてみる。
…みたいな感じ。
今日のこの日、天智天皇が祭られている近江神宮では「漏刻祭」が行われると聞いて、調べてみれば、神宮のHPに非常に印象的な言葉がありました。
「月日・時刻は太陽と月と地球の位置関係から決まってきます。大宇宙の永劫無窮のひろがりのなかに時の動きは刻々と脈打ち、それはまた神々のはたらきでもあります。」…と。
そうそう、そうゆうことです。
カミサマの領域のものを人の手で管理できると思いすぎて、かえってそれに追われて疲弊する現代人。
1年に一度、それをカミサマにお返ししてみる日があっていいんじゃないか。
これは、時の記念日によせる、ひとつの妄想。
ですが、時間を測る手段ができた、それ以前とそれ以後を考えてみれば、それは、猛烈な変化だったに間違いはなく。
ならば、その逆の行為は、また、何かすごい変化や発見を運んできてくれそうな、そんな淡い期待を孕んだ妄想でもあります。
◆今日は、2014年6月10日/旧暦5月13日/皐月壬子の日