朝ドラ「花子とアン」の独特なセリフにつられて、『赤毛のアン』を数十年ぶりに再読!

NHKの朝ドラ「花子とアン」が好調。
毎日面白がって観ているうちに、ときどき飛び出してくる、いわゆる大げさ系“いい言葉”が気になりだす。

ドラマの冒頭からなんども登場した「おらのことは、はなではなく花子とよんどくりょ」は、『赤毛のアン』の冒頭で自分の名前は、「コーデリア」と呼んでくださいと言いだし、「もしもアンと呼ぶならAnnでなくて、eのついたつづりのアンAnne」で呼ぶように懇願したエピソードそのものだし…。
(実際、ドラマのほうでは、花子が翻訳家となって、この物語のこの部分を訳しながら「私とおなじだわ」と笑っていたシーンもあったと思う)

とすると、他のセリフも気になる性分なもんで、結局、数十年ぶりに再読するハメに陥った(笑)。

赤毛のアン表紙

ストーリーは、アニメドラマにもなったし、超有名なのでざっと言うと…。

孤児のアンが11歳で、プリンスエドワード島の美しい村アヴォンリーに暮らすマシュウとマリラという兄妹のもとに、もらわれて(しかも、男の子のはずが、手違いで女の子のアンになった)きて、16歳までの日々を綴った物語。
いつも想像の翼を広げ、マシュウやマリラにとっては奇想天外なアンのおしゃべりと行動。そして、数々の微笑ましい失敗エピソードを通じて、彼女が、マシュウとマリラはもちろん多くの人々から愛され成長してゆくお話ですね。

それより、ドラマ「花子とアン」にやや夢中になっている今は、そこに登場したセリフが、かなりたくさん『赤毛のアン』から取られている事実の方が興味深い。

以下、ちょっと抜き出してみたので、ドラマ「花子とアン」にはまっているなら、このチャンスに名作『赤毛のアン』を一読(あるいは再読)をおススメする次第なのです。

◆1
「いつか本に、ばらはたとえほかのどんな名前でもおなじように匂うと書いてあったけれど、あたしどうしても信じられないの」と始まるセリフは、女学校時代に同級生たちと創った劇「ロミオとジュリエット」のセリフにつかわれていました。
「もしばらは、あざみとかキャベツなんて名前だったら、あんなにすてきだとは思わないわ」と。

物語では、むかえに行ったマシュウに、馬車の上で語っています。(第五章アンの身の上)

◆2
「腹心の友」というコトバももちろん早いうちに登場!
相手はもちろん、アヴォンリーに住む同い年のダイアナです。

「マリラ、近いうちにアヴォンリーであたしに腹心の友ができると思って?」と問うて、マリラのほうはやや教育的措置が必要かしら的に考えている。かみ合わない会話が面白いところ。(第八章 アンの教育)

◆3
もちろん、「わたしの腹心のともとなってくれて?」と、ドラマにあった、そのものずばりのセリフもあります。もちろんアンがダイアナに言う。(第十二章 おごそかな誓い)

◆4
「あのね、マリラ、何かを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたるのよ」(第十三章 まちこがれるピクニック)は、ドラマでは、花子と花子の腹心の友、連さまと9年ぶりに再会したシーンで使われていました。

◆5
セリフではないのですが、石版で同級生の男子を殴るシーンもあります。(第十五章 教室異変)

同級生のギルバートが、アンの髪の毛を「にんじん」と言って、アンが猛烈に怒り、石盤でギルバートの頭を殴って(石盤を)砕いてしまう。
ドラマでは、朝市に対して同じことをやってましたね。
残念ながら、花子と朝市は結婚しませんでしたが、アンとギルバートは、犬猿の仲から和解し、やがて結婚することになります。

◆6
ダイアナに「いちご水」を飲ませたつもりが葡萄酒を飲ませ酔わせてしまうというエピソードは、おそらく、蓮子さまに、花子が葡萄酒を飲まされて酔ってしまうシーンの参考にしたと思われます。(第十六章 ティーパーティの悲劇)

◆7
「マリラ、明日がまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うとうれしくない?」(第二十一章 香料ちがい)も、花子が甲府の新米教師時代のセリフで、似たようなのがありました。

その後、マリラに「あんたのことだからまだたくさん失敗するにきまってるよ」とつっこまれ「一人の人間がするまちがいには限りがあるにちがいないわ。だからわたしだって、し尽くしてしまえばそれでおしまいよ。そう思うと気が楽になるわ」と返す。

ちなみにドラマでは、「まちがいにが限りがある」は、花子のおじいやんのセリフだったかと思います。

◆8
花子が小学校の屋根を歩こうとして、落ちるというシーンに似たエピソードがあります。
「赤毛のアン」のほうでは、同級生たちとのやりとりからそうゆう話に発展してしまう。
もちろんアンも墜落。
花子のように朝市が助けてくれることもなく偶然落ちどころが良く助かる設定。
ただしかかとを大怪我します。
(第二十三章 アンの名誉をかけた事件)

◆9
マシュウは、物語の最終局面で心臓病で亡くなります。
ドラマのおじいやんも心臓病によって逝きます。おじいやんとマシュウは共通点が多いキャラクター。

とくに何か問われて答える時「そうさなぁ」というところなどは、もうそのものです。

◆10
「一生懸命にやって勝つことのつぎにいいことは、一生懸命にやって落ちることなのよ」(第三十五章 クィーン学院の冬)も、ドラマのほうで印象的なセリフとして登場しましたね。

『赤毛のアン』のほうでは、アンが進学した「クィーン学院」卒業の時。
たったひとりの優秀な生徒に与えられる大学進学の奨学金をアンが獲得したく、その結果を待っているときにアンが友人に言ったコトバ。

ドラマでは、朝市が言っていました。ただし「 一生懸命やって勝つ事の次にいい事は、一生懸命やって負ける事だ。」とちょっとアレンジされてました。

◆11
これは、物語の要所要所に登場し、私もいちばん好きなセリフ。
「曲がり角をまがったさきになにがあるかは、わからないの。でも、いちばんよいものにちがいないと思うの」も、もちろんあります。(最終章 第三十八章 道の曲がり角)。

大学進学の奨学金をもらえることになりつつも、マシュウが亡くなり、マリラは目を悪くし、失明の危機へ。
アンが育った家・グリン・ゲイブルスを売ることを考えるマリラに。
アンは、奨学金を辞退し、アヴォンリーで教師になって、マリラと一緒に暮らす決心を伝える下りで登場するセリフです。

この最終章の最後の最後に来て登場するセリフ。
しかし、このセリフによって読者は物語最後にさらに深く感動させされもする。

そして、その後延々と続く、アンシリーズの旅。
そのはじまりのコトバとしても存在するのかなぁ…とも思えます。

そういう意味で、ドラマの方では、かなり最初のほうから何度もこのセリフが登場しますね。

…ということで、ここまでくると次の『アンの青春』以降も、同じくセリフ探しをしつつ再読の旅に出たくなってしまっております、私。

ああ…。