今日は、立春から数えて210日目の「二百十日」。
暦日の「雑節」に定められた嵐がやってくる要注意日であり、この現代でも台風来襲の特異日。
気象学的には不明ながら、統計的には、なぜか台風がよくやってくる日でもあるそうです。
東北育ちの子ども時代、この日には風のカミサマがやってきて、やっと実った田の稲を荒らし、畑の作物を根こそぎ持っていってしまう…などと教えられ、秋晴れの空の向こうを恐る恐る眺め、その前兆をさがそうとしたものです。
そんな気分をさらに煽ったのが、はじめて読んだ宮沢賢治でした。
どっどどどどうど どどうど どどう、
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんもふきとばせ
どっどどどどうど どどうど どどう
9月1日の新学期に都会からのやってきた、転校生高田三郎。
彼は、<変てこな鼠いろのだぶだぶの上着を着て白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていた。それに顔と云ったらまるで熟した苹果(リンゴ)のよう殊に眼はまん円でまっくろなのでした>
…という風貌で、着物姿にはだしの村の子どもたちにとっては、それだけで不思議な存在でした。
やってきた日は、東北の農村では強風の要注意日「二百十日」だということもあって、すぐに子どもたちから「風の又三郎」と呼ばれるようになります。
そして、村に小さな騒動を起こして、あっという間に去ってゆく。
子どもたちは、やっぱりあいつは、風の又三郎だとひそかに思いあうのです。
「又三郎サマ」は、風のカミサマ
東北のこどもにとって、「又三郎サマ」は、農家の人々たちから日々聞かされた風のカミサマの呼び名です。
そんな日常の中に転がる言葉が、宮沢賢治の小説「風の又三郎」をより身近なものに思わせ、夢中にさせたのはいうまでもありません。
二百十日は、風のカミサマ「又三郎」と宮沢賢治…と台風。
そんな刷り込みがされたかのようで、大人になって再読し、そこに、台風のシーンなどまるで登場もせずややびっくりもしました。
年をとって読み返せば、「どっどど…」の歌に歌われる<青いくるみ>や<すっぱいかりん>は、つまり村の少年たちのことかしら…などと深読みもして、台風のように避けられない強烈なものにも何度も吹きさらされて少しずつ大人になってゆく少年たちを描いたものかと理解して、薄い一冊をまた書棚にもどします。
しかし、数ヵ月後か数年後かに、その一冊を書棚からとりだせば、また性懲りもせず、どこからか大風がやってきて吹き荒れ去ってゆくような嵐のシーンを物語の中に探す…子どものころの刷り込みは、決して消えることはないようです。
9月1日は、防災の日でもあります。
というか、そちらのほうがいまや一般的でしょうか?
1923年の今日、関東大震災が起り、その日のことを忘れず教訓として防災意識を高めようとして設けられた記念日ですが、その大地震と台風を警戒する日がおなじ日なのも、不思議な偶然。
実際、防災の日が語っているのは、すべての自然災害から身を防ぐということで、制定のきっかけは、関東大震災に加え、制定の前年に起った「伊勢湾台風」の教訓もあるそうです。
つまり、風を神と見立てる、大いなるものを敬うココロをもって、台風の来襲に備える。
…雑節「二百十日」の考え方もそこにきちんと含まれているわけです。
…なんてすこしうがちすぎかな?
ということで、今日は、ぼろぼろになった文庫、宮沢賢治の『風の又三郎』を持って外出します。
◆今日は、2014年9月1日/旧暦8月8日/葉月乙亥の日
◆日の出5時13分 日の入18時09分/月の出11時09分 月の入21時52分
↓同じ装幀ながら、新編が出てるんですね。買い替えようかなぁ…。