桜も梅も…椿もだった、さらには、朝顔、菊などとつづく…。
ともかく、園芸品種が多数+品種にいちいち粋な名前がついているなら、たいがい、江戸の園芸ブームに乗って増やされた花とみて間違いない。
もちろん、この例に外れるコトは全くなく、「つつじ」が大ブレイクしたのも江戸時代です。
そして、江戸のつつじブームを象徴する「霧島」
せっかくなので、その由来などを少々ココにまとめさせていただきました。
江戸のガーデニングブームは、江戸の大火が持ってきた?
つつじブームは、町民文化が花開く元禄時代(17C後半~18C前半)から。
つつじは、「万葉集」にも「源氏物語」にも登場する古くから日本にある花なんですが、それらが書かれた奈良、平安時代にはまだやんごとなきお方の愛でる花。
しかし、元禄時代のつつじの流行は、庶民まで巻き込むモノだったというのが、これまでの園芸品種の歴史と大きく違う点です。
「火事と喧嘩は江戸の華」。
…といいますが、江戸の園芸ブームと、しいては、つつじの花の大流行は、江戸の大火が遠因ともいえます。
もっとも街の被害が甚大であったといわれる1657年の「明暦の大火」。
以降、江戸の街では、都市計画などが真面目に考えられるようになりました。
焼け跡は整備され、新しい屋敷が建設される。
となれば、そこには庭木の需要が生まれてきます。
まずは造園ブーム
→植木職人需要が増加
→植物に造詣深く&商才に長けた植木商も増えてゆく。
となった。
江戸のカリスマ植木職人登場!
当時、植木職人の住居の多くは、今の巣鴨に近い「染井」のあたり。
現代では、ソメイヨシノが生まれた場所として知られていますが、当時そこは、植木職人の街だったのです。
そして、そこで有名だったのが、伊藤伊兵衛という植木商。
自らの屋号をつつじの品種からとって「霧島屋」と名乗り、つつじを中心とした植木屋を営んでいました。
この、伊藤伊兵衛は、いってみれば、江戸のカリスマ植木職人。
17世紀半ばから始まる元禄時代に、園芸界をリードした人物で、植物に深い造詣を持つのはもちろん、時代の流行を掴み分析することに長けたひとだったようです。
そのチカラをビジネスとして巧に生かし、特に、江戸のつつじの流行は、伊藤伊兵衛の功績によるものが大きい。
当時、「つつじ屋」と言えば、この「霧島屋」のことを指すほどだったのだそうです。
そして、つつじは東へ西へ
江戸時代といえば、徳川体制を存続させるために作られた参勤交代制度。
武士は、自国と江戸を行ったり来たり、それに併せて、商人たちも日本国内を移動します。通行手形とか関所などがあって、基本人々は自由に国内移動はできないとされましたが、けっこう行き来があったとも言えます。
そんな事情にのっとって、つつじの商売は、江戸市中と近隣の花好き相手にとどまることなく、商用や参勤交代で訪れた他国の人々にも対象を広げます。
彼らは、江戸に上れば、必ず「霧島屋」に立ち寄って、珍しい品種のつつじを求め、大切に国許へ持ち帰り、慈しんで育てたといいます。
つつじは、花の美しさや葉の付き方枝ぶりも多種多様の趣ある花だというのに、丈夫で、生育も早いといういい所ずくめ。
たとえ初心者が、多少剪定する場所を間違ったとしても大勢に影響もなく、とにかく育てるのが容易ということも手伝って、流行り者には目のない江戸の町人達はもちろん、全国にもどんどん広がってゆきました。
家康の椿の愛好によって始まったとされる、江戸の園芸ブームは、その後の牡丹もまだまだ一部の身分の高い人の楽しみでしたが、つつじに至って、いよいよ庶民一般のものとなり、底辺の広い流行となってゆきます。
こうして、つつじは、江戸市中にも、全国にも、ひとつのブームとして広がり、当時の熱狂こそなくなりましたが、しかし、消えることなく今に至るというわけです。
…とこれが、「つつじ霧島」が、江戸のつつじブームを象徴するという話の顛末。
ちょっと覚えておくと、つつじを観賞するのもひときわ楽しいんじぁあないかと思いますが、いかがでしょうか?