季節は、二十四節気「穀雨」と同時に、七十二候は「葭始生(あしはじめてしょうず)」に入っております。
「葭」は、川の流れが緩やかな下流域とか、干潟など湿った土地に広い葭原をつくる植物。
それが、芽吹いてきた。
つまり水辺にも春がやってきたというコトです。
春の太陽は、まず空気を暖め、次に水ぬるむ春がやってきて、地面が暖かくなるのが最後のように思うけど、七十二候は、その季節の流れをかなり律儀に現しておりますね。
水が温んだとなったら、ここから先の季節の変化はさらにさらにスピードアップすること必至。
七十二候でも、地面で生きる動物たちや、土中が暖かくなって地べたに咲く植物たちが、にぎやかに登場しますのでお楽しみに。
ということで話を戻し、ご近所にて水辺の様子に着目してみましたところ…。
「葭」は難しいですが、確かに、不忍の池でも芽吹きがあるようです。
…「蓮」ですが。
しかもまだまだこんなですが…。
えっ?枯れ草を背景に、水鳥がうらぶれてる写真にしか見えないって?
水面に点々と出ているモノがあるでしょう?!
みえませんか?
ならば拡大。
うーん、ごみにしか見えんっ!
これはどうだ!
うーん、うーん。
これがもう少し待つと、こんな風に美しくなるんですがねぇ。(昨年の5月中旬ごろの写真です)
まあ、でも芽は出てるってコトで、七十二候を、私のご近所用にカスタマイズして、「蓮始生(はすはじめてしょうず)」
…なんちゃって(笑)。
しかし、水辺も春めいてきたコトをあらわすのに、なんだってまあ、「葭」を採用したんでしょうか?
ちなみに中国から渡ってきたときの同時期の七十二候は「萍始生」。
「浮き草が芽を出し始める頃」の意味だそうです。
それをワザワザ変えたというコトは、この暦が作られた江戸時代には、水辺に「葭」がつきものだったんですかねぇ。
河川工事&護岸工事がばっちりなされた東京地方では、水辺というものがそもそもないので、比べようもありません。
いや、それとも…。
「古事記」の冒頭「天地(あまつち)の初め」の章のカミサマ方が生まれる描写になぞらえたのかな?
あるんですね、そうゆう描写が冒頭に。
手持ちの「古事記 (上) 全訳注」 (講談社学術文庫 207)
から引用してみましょう。
「天地の初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原(はら)に成りし神の名は、天之御中主(あまのみなかぬしの)神。次に高御産巣日(たかみむすびの)神、次に神産巣日(かみむすひの)神。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身(み)を隠したまひき。
次に国稚(わか)く浮ける脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢの)神。次に天之常立(とこたちの)神。この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。」
「葦牙(あしかび)」は、葦牙(あしかび)と同じ意味。
日本のカミサマは、まだ天地がどろどろとしてクラゲのように漂っているところから、葦牙(あしかび)が生えるように生まれてきたと言っています。
とすれば、「葭」は特別。
そこに、いきいきとした春の芽吹きのイメージを重ねたかった。
…ってことでしょうか。
どちらにしても、爽やかな季節到来。
うだる夏が来る前に、十分に楽しみたいモノです。
◆今日は、2014年4月22日/旧暦3月23日/弥生癸亥の日