亀戸天神は、ただいま、藤まつりを開催中(~5月6日)。
人手もスゴイが、藤も半端ない美しさ。
薄い紫色の花が房状にたっぷり咲いて、4月の下旬ごろから開花の噂を聞いてた藤もそろそろ最後の見ごろを迎えています。
ここは、江戸時代からの藤の名所。
藤棚は現在でも15棚、約100株の藤の木が植栽されているそうで、鳥居をくぐって境内に入り、正面の赤い太鼓橋に上がって眺めれば、あたりは一面の藤棚…。
ああ、これは、紫の波頭のごとく!
藤を仰ぎ見ることはあっても、目の高さなどから眺めることの少ない藤が、波打つようにはるか向こうまで連なっている感じ。
これが、古くから「亀戸の藤浪」などと呼ばれている景観なのでしょうか?
今度は、藤だなの下に入って見上げてみましょう。
これだけ連なる藤棚の下なら、そこは藤の海の底のごとくです。
まるで海中から見上げているような気分に一瞬。
天神様といえば梅のはずなのですが、こうしてみれば、梅の時期の記憶が飛んでしまいそうな藤の存在感です。
藤は、蔓で伸びてゆく植物なので、植栽の多くは、そこに棚を仕立てて蔓をはわせます。
垂れさがる花を鑑賞する工夫ですが、それが公園や庭園の片隅にひとつあるだけで、なかなかな風情を演出してしまう。
それは、花のない時期から、人々の気持ちのほうが、そこに藤が花咲く様子を想像してみたりするからです。
亀戸天神には、そんな藤棚があちらにもこちらにも。
この景観は一見の価値がありまくりかと。
亀戸天神の寺社縁起から、その由来を少し。
境内にある寺社縁起を読めば、もともとは、同じ本所亀戸村に小さな天神様の祠があってそれが発祥。
1657年の明暦の大火以降「幕府は、本所の町を復興開発事業の土地と定め、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公は、その(本所の町の)鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進された」とあります。
その定めにのっとり、1662年、本所亀戸村に天神様を移し、境内は大宰府天満宮に模して整えられた。
今ある社殿、回廊はもとより、心字池、太鼓橋を中心に梅や藤を配した庭園風の境内も、亀戸天神の原型はそのときに作られ今に至っているようです。
とはいっても、藤棚のみは、亀戸天神オリジナル。
実は、大宰府はもちろん、京都北野、大阪天満宮でも見ることはできません。
藤の花をデザインした「下がり藤」は藤原氏の家紋のひとつ。
そう考えれば、天神様に藤はなんとなくタブーなにおいのする花ともいえる。
藤原氏は、菅原道真公を失脚においやった敵方。
そこにゆかりある花が、天神様境内にあるとは実はちょっと不思議です。
しかし、そのあたりの理由は不明。
亀戸天神でも「江戸時代、亀戸は湿地で初代宮司が水を好む藤を社前に植えられ江戸の名所として五代将軍綱吉公、八代吉宗公が訪れた記録もあり、多くの浮世絵などの題材にも取り入れられています」と告げるばかりです。
紫に波打つ美しい藤を見ながらそぞろ歩けば、そんな謎ときはかえって無粋。
「同じ時代に、各所に桜が植栽されたように、適した場所に藤を植えたまでのことです」と、当の藤に言われているような気もします。
広重の描いた亀戸の藤
境内の太鼓橋を背景に手前に藤をひと房、あの歌川広重が描いた「名所江戸百景・亀戸天神の境内」の風情を、今でも楽しむコトができます。
…といっても、実は同じロケーションで写真を撮るのはちょっと難しいのですが…。
しかたないので、太鼓橋の近くから撮って気分だけ味わう。
その広重の藤の絵を詳しく見れば(→こちらでご覧ください)、太鼓橋の向こうに、さらに左右に広い藤棚があって、藤の紫と並んで赤い提燈。
その下は桟敷になって、人がすわって藤を観賞する様子が描かれています。
江戸の花見のガイドブックに『江戸名所花暦』というのがあって、それによれば、「表門を入りて正面一の反橋、此池に添ひて左右藤棚あり。此の下に各茶店を構ふ」だそうで、かつては、藤の下で飲み食いできる茶屋があったようです。
現在は、祭り縁日でおなじみの露天が並ぶのみにて、茶屋などはもちろん見る影もなく…。
ああ、うらやましいったらありません。
…どうも、話が花より団子になってきました。
この近辺の名物といえば、厚焼き玉子に葛餅…といろいろあります。
何かお土産を買って帰りましょうか。
その亀戸天神のお土産の筆頭といえば、船橋屋のくずもち。
そのサイトで藤の開花情報が公開されています。
これから出かけられるなら、そこをちょっと確認してから出かけるというのがいいかもしれませんね。
◆今日は、2014年5月1日/旧暦4月3日/卯月壬申の日