関東エリアでは、紫陽花が咲き始めたといえば、なんとなく鎌倉方面にココロが動きがち。
ですが、我がご近所だって、ココにも…。
あそこにも。
あらら、こんなとこにも。
東京の下町では、紫陽花の花が目立つ季節に入りました。
我が街・谷中千駄木からほどちかい白山神社では、きょうから、その紫陽花のお祭り「文京あじさいまつり」(6月7日~15日)です。
薄緑のつぼみがギュっとブロッコリみたいに固まっていたのがボツボツ出始め、それが今年最初に気になりだした紫陽花。
数日前にはそのつぼみがずいぶん開いてうす緑の花のカタチになっていました。
それが、そろそろ、紫だったり赤だったりと色づいて、そこまで来るともう早い早い。
ここにもかしこも、なんだこんなに紫陽花があったんだというぐらいに咲き誇っています。
日本には、紫陽花の名所が寺の境内という例が相当数
紫陽花の名所となる寺の多くは、そのまま「あじさい寺」と美しく呼称されて、少し得をしています。
けれど、この花が咲く梅雨の季節は、昔、命を落とす人が多い時期でもあって、それは、死者に手向ける花として多く境内に植えられたからなんだとか。
紫陽花は、実は、少し悲しい役割を持つ花でもあるのです。
それが、挿し木などで簡単に増える丈夫な花という気安さもあって、寺から少しいただいて増えたというのもあるんでしょうか?
「あじさい寺」と呼ばれる寺の山門を出ると、あたりの民家の庭や商店の入り口脇とか、あらら歩道の植栽にまで唐突に一塊ふた塊と紫陽花が咲いています。
しかも、たった今、お寺の境内で見た珍しい品種までがもあちこちに…。
我が街の紫陽花の名所は、寺ではなく神社、白山神社ですが、やはり、神社を取り巻く街中が、紫陽花でムラサキや青に彩られています。
そして、紫陽花の花をよすがにおまつりまで開催される、愛されよう。
たぶん、多くのあじさい寺の周囲は、こんな風に、寺の紫陽花がそのまま町に広がって咲き、逝った死者を慰めるとともに、雨降る日々に鬱々と過ごす生者を喜ばせているんでしょうね。
紫陽花の花は、実はそうとう不思議な花です。
逝ったヒトと、生きるヒトをつないでいるかのような花だからかどうなのか、紫陽花の咲き方はちょっと不思議。
つぼみの頃から花が色づき、それが散るまで、毎日観察すれば、紫陽花の花は七色変化を遂げます。
ひとつの花を根気よく観察すれば
1.つぼみの緑
2.つぼみが開けば薄い緑
3.白地に紫や赤、青の縁取り
…ここまでは、上にある写真のごとくですね。
4.紫・赤・青の淡い一色
5.完璧に色づいて
何日かごとに少しずつ違った色合いになってゆきます。
花盛りの頃だけを比べてもやはり花の色の不思議がある
たとえば、同じ株から赤と紫の色違いで花が咲いたり、紫を挿し木したと思えば、なぜか咲いたのは赤い花。
あるいは、鉢から庭に降ろして楽しみにしてたら、「あらら色の記憶違い?」と思うほどに違う色が咲いた。
…といった感じのコトが普通に起こるのも、紫陽花の特長。
実は、これ、科学的な理由があって、紫陽花の色素アントシアニンと根っこから吸い上げられた地中のアルミニウムの反応の度合いと有無によるものなんだそうです。
ひらたーく説明しましょう。
・土のアルミニウム+紫陽花のアントシアニン=花は青
・土にアルミニウムなし=花は赤、
・土のアルミニウムの吸収度合いが少ない=花は紫(赤と青の中間色)
…ってこと。
同じ一株でも根っこの微妙な状態でアルミニウムの吸収度合いが違って、だから、同じ株なのに違う色の花が咲くという理屈。
実は、咲いて枯れるまでの変化も同じ理由で、紫陽花のもつ色素の働きがだんだん強くなりまた弱まる過程がそのまま色に反映される…と、まあそうゆうわけです。
なーんだ、そうゆうことなんですか。
でもこの事情を知らなければ、やっぱり不思議。
そんなことななどわかるすべも無い時代ならば、やっぱり紫陽花の花はよっぽど不思議な花にみえたでしょうね。
それが、敬虔なイメージにもつながって、死者に手向ける花に似つかわしく思われたのかもしれません。
植物学者牧野富太郎によれば…。
ここに散々書いてきた「紫陽花」という漢字。
実は、こう書いてしまうのは、非常に大きな間違いなんだとか。
牧野富太郎博士の著書『植物一日一題』でも「アジサイ」の章ののっけから
「私はこれまで数度にわたって、アジサイが紫陽花ではないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓になった病はなかなか癒らなく、世の中の十中ほとんど十の人々は痼疾で倒れてゆくのである」
と嘆いています。
膏肓とか痼疾とか…つまり、治る見込みのない病とか持病とかで比喩してずいぶんな言いようです。
が、牧野先生によれば、「紫陽花」という名の出典とされる中国の詩人・白楽天の詩は、
「招賢寺ニ山花一樹アリテ人ハ名ヲ知ルナシ、色ハ紫デ気ハ香バシク、芳華ニシテ愛スベク、頗ル仙物ニ類ス、因テ紫陽花ヲ以テ之レニ名ヅク」
とあって、この詩に描かれている花は「単に紫花を開く山の木であるというのに過ぎず、それ以外には何の想像もつかないものである」ということなんだそう。
なるほどね。
植物学者であれば、そう細かいことも言いたくなりましょうか…。
そしてついには、牧野先生「俳人、歌人、生花の人などは真っ先に猛省せねばならぬはずだ。」などと少し怒りモードのご様子でもあります。
確かに、素人ですら、梅雨の時期にこそ、ことさら美しく咲く花に、何で紫の「陽」の花とするかなぁと思ってはいました。
でもね、漢字で書いたほうがなんとなく雰囲気があっていいんですよセンセイ。
雨の季節に咲くから「紫雨花」でも、鞠みたいな造作なので「紫鞠花」でも、そんなら、牧野先生自ら、別の漢字を当てていただければよかったものをと思わないではないですよ。
だって、たとえば、あじさいを一枝二枝部屋に飾る。
もうそれだけで、そうとう豪華で、なんとなく「あじさい」とか「アジサイ」とかではなくて、「紫陽花」と漢字で思って眺めたくなる気持ちになりますもの。
そして、その名のほうが、色変化する花の風格もでるってもんです。
うーん、そうゆう理由でお許しいただくんじゃだめですか…ねえ。
◆今日は、2014年6月7日/旧暦5月10日/皐月己酉の日