8月4日の84→はし
…と、またしても語呂合わせなのですが、今日はお箸の日です。
箸は、日本の食文化に欠かせないものであることに加え、精緻な工芸品としての位置づけも高いもの。
この狭い国土に長い歴史に洗練された手法で作り上げられる箸がさまざま存在するのは周知の事実だし、だから箸づくりに携わる職人も数多い。
箸の専門店に足をはこべば、そこは小さな美術館さながらで驚くばかり。
小さく細い2本の棒に施された細工の美しさに、ため息までつくことしばしばです。
日本人って、この美しい工芸品を使いながら日々食事をしているんですよね。
なんという豊かさでしょうか。
加えて、お箸の正しい持ち方に始まる、さまざまな作法。
それをしっかりマスターしただけでも、食事の所作が全体として美しく見える不思議。
もちろんアジア各地にも箸は存在しますが、それらは、もっと道具として割り切ったもののような気がするのに対し、ひとつ日本人と箸の関係は特別なものがあるようにも思えます。
今日は、各地の神社では、箸供養が行われます
こんな風に「箸」について考えを巡らせば、箸の日が語呂合わせであろうと、箸と日本人の特別な縁をもつに疑う余地はなく。
ちょっと昔の子どもたちなら「箸には使用しているひとの魂が宿る」と言われて育ち、ココロに深く刷り込みがなされました。
だから、何かの拍子に折れるはずもない箸がぽっきり折れたりすると気になってさあ大変!
その箸の持ち主が、何か不慮の事故にでもあったのではないかと心配になる始末。
だから、古くなったりぐらいでは実は粗末に捨てられません。
お箸と新調したとしても、なぜか古い一膳がいつまでも箸立てに一緒にならんでいたり…。
ということで、今日は、折れたり古くなったりした箸を持って、「はし供養」へ。
東京地方で知られているのは、赤坂の日枝神社の「箸感謝祭」。
箸供養を行う神社でも、古い箸を預かってくれるだけというところが多い中で、ここは、お焚き上げに参加するのが可能。
拝殿前にかがり火のように浄火をともして神職の方々が神事を行い、その後、その火で古い箸をお焚き上げして供養します。
そして、この神社では、だれでもお焚き上げに参加可能というのがバリュー。
中には、箸を持参しないひと用に、供養すべき箸がちゃんと用意され、雰囲気を味わうことが可能だったりするサービスぶりです。
…っていっても、蒸し暑い中、盛大に燃えるかがり火によってゆくだけでも暑苦しく。
修行みたいな供養なんですけどねぇ…。
さて、日枝神社境内の拝殿前で神事は粛々とはじまり…。
神職の方々の衣装がとってもステキです。
暑いけれど、目にも涼やか!と、楽しく眺める。
最初麻かな?
と思ったのですが、光沢があるんで絹ですかね…。
さて、お焚き上げの炎があがり。
巫女さんたちが、まず最初の箸を火に入れ供養のはじまり。
これがまた衣装がかわいいんですよね~。
…ってこればっかり(笑)。
かがり火のなかで箸はよく燃えます。
このあと、このかがり火に向かって古箸を持つひとの長い列。
私もその列にならび、自分の順番をじっと待ちます。
暑い中、少しずつ近づいてゆく先にも暑い炎。
語呂がよかったからといって、何もこんな季節になぁ…とか思うのも毎年のコト。
しかし、このぐらいの労苦を味わった方が、世話になった箸をきちんと供養できたような気がしてやや納得もする。
炎に包まれる箸にむかって、ありがとう!
…と言ってみます。
モノの供養という習慣が教えてくれる大切なこと
ひとが日々つかうモノには、魂が宿る。
だから、モノを人間と同じように扱い、古くなってその役割を終えたら供養する。
…というのは、日本人の非常にベーシックな信仰のひとつ。
そして、それはそのまま、狭い国土で資源も少なく、持てるモノがないながらもココロ豊かに過ごすためのヒントでもあるかな…と。
モノに魂が宿っているならとことんまで使いつくそうとも思う。
そうすれば多くのモノを持つ余裕も必要もありません。
そして、最後の最後は、土に埋め、火で焚き上げ、水に流し、モノが人間界に来る前にいただろう、もともとあった場所へ返すことにもこだわって、それが可能な自然物素材をつかう。
それは、醜いごみも出なくてすむ仕組みでもあります。
多くのモノに囲まれて生きて、かえってガザガザ落ち着かない現代に生きて、ときにこうした行事に触れれば、とても大切なことを教えられたように思うものです。
昔から続く習慣や行事は、古くて新しく、ずっと未来を照らすような…。
いつも、日本人の一番大切にすべき過去からの遺産のようにも思えてきました。
◆今日は、2014年8月4日/旧暦7月9日/文月丁未の日/上弦の月
◎箸感謝祭の情報はこちら→レッツエンジョイ東京
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