北村薫氏の、今度こそ久々の小説『八月の六日間』。やっぱり、慕わしい物語でした。

北村薫3年目ぶりの小説『八月の六日間』を読了

といっても、本書は2014年5月に出た本なので、かなりおくればせながらなんですけどね。

八月の六日間

主人公は、自然も運動も取り立てて好きじゃなかった。団体行動も昔から苦手…というより、ひとりがいい。
どちらかといえばインドアで読書が趣味みたいな編集者の女性。

そんな彼女が、40歳目前、さまざまに人生の不調が重なったとき、運命のように山歩きの魅力に出逢ってしまった。

基本ひとりでいどむ山

山ガールとかいうコトバが独り歩きして、おしゃれなウエアやグッズも登場。
気楽な趣味のようにもとらえられているけれど、山歩きは怖い。

私の登山歴は、もうかーなり昔の大学時代のゼミ合宿のほぼ初心者コースで終わっているけれど、それでも、侮れば急な天候不良や考えられない体調不良の体験。
記憶の中には、山頂の美しい眺めや昇って降りた達成感と隣り合わせに恐怖がちゃんといる。

だから、山ガール流行になんてまったくココロが動かないよ、面倒な上に怖いもん。

が、こんな本を読んでしまうと、ああ、また昇ってみたいかも…と調子に乗って思ってしまうのである。

っていっても、物語に登場するルートは、槍ヶ岳、標高三千百八十メートルの頂から始まって、裏磐梯、常念山脈縦走、天狗岳、再び、槍ヶ岳…と本格的。
私は、その物語を想像しつつ、高尾山ぐらいでぜんぜんいいのですけどね。

山に惹かれてしまう理由はふたつ。

ひとつは、各章ともに、物語は、必ず山に行く準備の描写からはじまって、それがなかなかに惹かれる要素。

<着替えは、2組。これを四日間で使いまわすことになる。寝巻代わりのジャージに、手ぬぐい、タオル、折りたためるダウンジャケット。マウンテンパーカ。雨具。薄手フリース。帽子に手袋。タイツ。サンダル。>

続けて、抜き書きすれば、保温ポット、水分補給用のハイドレーションシステム(チューブ付のビニールパック)、粉末ポカリスエット二袋、携帯用コンロと小さい鍋、マグカップと折り畳みフォーク・スプーン。折り畳みナイフ。歯ブラシに薬(鎮痛剤)。絆創膏。最小限の化粧品。サブザック、ストック二本、ヘッドランプ。方位磁石。山岳地図にガイドブック。
食べものがずらりと続き(品川巻やじゃがりことともに、一度、神楽坂下にあるチョコレートショップのオランジェットとか出てきておおっ!と思った)、最後にもってゆく文庫本。

ヒトが山で最低限暮らせる道具リストというミニマムさがまずは好みで、ストーリー展開としてはあまり重要じゃあないはずだけど、もしかして、いちばん丁寧に読んだ部分かも(笑)。

そして、最高にいいなぁと思ったのが、もってゆく本があるというとこかな。

山に余分な荷物は禁物。だけどあえて、お守り代わりに文庫本を持つ。
そのセレクションがまた、この主人公を良く表してもいる。

…責任ある仕事をきちんとこなし、他者との関係もよさそうにみえるけど、そうするためにかなり無理していそうだなぁ…と。

その「世間での無理」を、山を登って降りるという中で解放してゆく。

…というのが、本書の肝になる部分かと。

山でひととき、苦楽を共にする人々。
そして、ひとり黙々と歩く中、頭に去来する、いままでかかわり合った人々のコト。
その関わりの中で感じた悲しみや苦しみや、小さいながらも鬱陶しい怒り。

…いつも思うのだけれど、薫なんて名前を持った作者は、おじさまなんである。
なんで、そうゆう女子のココロが解るんだろうねぇ…。
作家だからってわかり過ぎ。
もう何回も「あっ!これ私のことだっ!」と思ってしまったよ。

圧倒的ともいえる自然の中で、へとへとになり、危険に遭遇し、「何で、こんなとこ来ちゃったんだろ」と愚痴をつぶやき。
しかし、とにかく前へ前へゆくうちに、そうゆう、些末だけど大きなしこりが、大きな存在の前で、正真正銘些末なものに昇華してゆく。
そして、寝床では気を失ったかのように熟睡し、その昇華が確固たるものになってゆく。

ああ、多くのヒトは、快適で便利な狭い囲いの中に居過ぎるんだな。。
悩みも目標も、その囲いのサイズに合わせて小さい小さい。

どこかの大自然の内懐に入り、もがいて帰ってきたわけでもないのに、読後感はこんな風。

もうこんなひとつ抜けた感じになっているのである。
不思議だわ。

付録:主人公が山にもっていった文庫本リストほか登場した本

・戸板康二『あの人この人 昭和人物誌』
・「山のエッセー集」(加藤文太郎『単独行について』が収録。タイトルは不明)→文庫ではないので山行きは却下していた。この本をきっかけにした回想で、新田次郎『孤高の人』中島敦『山月記』などが登場。
・室生犀星『昨日いらしてください』→山小屋の本棚にあった本
・内田百間→書名はなし。うーん何の本かなぁ。
・向田邦子『向田邦子 映画の手帖』
・『作家のおやつ』→ムックなので持参本ではない。いつものように山用の食料をそろえていて思い出した本
・南方熊楠『十二支考』
・川端康成『掌の小説』
・吉田健一『私の食物誌』
・西村美佐子『風の風船』
・バージニア・ウルフ『オーランド-』
・中島敦『南洋通信』

あと好きなエピソードがふたつ。
・出社前の7時半に出かけた美容室の描写。<東を向いたサッシのガラス戸を開く。風でレースのカーテンが揺れる。彼女(美容室のオーナー)は、そこで天井を示した>。美容室が入っているマンションの前に止まっている自動車のフロントガラスに朝日が当たってそれぞれに反射した光が、部屋の天井にもカーテンのレース模様を天井に描いたらしく。その美容師は、誰かといつか分かち合いたいと狙っていたのが、早朝の予約でかなったという話。(P78~79)
・<「登山口から歩いて、せいぜい三十分ぐらいの雪原で、お手軽なテント泊をするんです。それぞれ、いいワイン一本と、いい肉一枚と、好きな文庫本一冊もって集まる。そこで肉焼いてワイン酌み交わしたら、あとは何をするのも自由。ぽかんと空見上げたり、本を読んだりして過ごす」>(p95)というツアーの提案。しかし、これを会社で提案したら、そんなの商売にならないと却下されたとか。いや、私は、こっちにこそ参加してみたい。

ああ、あと、惹かれた駅弁
・明石のひっぱりだこ飯