10月27日から読書週間スタートで、
その初日の今日は「活字の日」
正式には「文字・活字文化の日」。
…なんですが、これだと印象に残らないよねぇ。
なんだってスキッと「活字の日」にしなかったんだろう。
制定目的は、<国民の間に広く文字・活字文化についての関心と理解を深める>ってことみたいなのにそれでいいと思うのですが、オトナの事情?
だからといって、特に目立ったイベントがあるわけでもなくて、最近はハロウィンのかげにあっさり隠れておるようです。
活字とか、本、読書することって、ものすごくポテンシャルの高いことだと思うけどねぇ。
この日、街へ出かけれ見れば、思いがけず「本」をとりまく、楽しいコトが繰り広がる日だったらいいのにねぇ。
祝「文字・活字文化の日」
世の中でいちばん好きな本を紐解こう!
昨年から、個人的には、そんな風に位置付けて、紐解くのは、2015年5月にあちらの世界へ逝ってしまった詩人・長田弘さんの一冊と決めた。
一冊目は、詩人・長田弘さんの『食卓一期一会』で紐解いたらいきなり出てきた「あ」の活字。
活字の日に偶然見つけた「活字のブックマーカー」。
ずっと以前に買ってその日まで忘れていたんでした。
今年は、おなじく長田弘さんの『猫がゆく―サラダの日々』に「あ」の字を挟んで、さあ読み始めます。
この本は、私が、初めて読んだ長田作品。
当時は『サラダの日々』というタイトルで、いったん絶版(←古書で、出てました!)。その貴重な本も何度かの引っ越しでどこかへ行ってしまって、今持ってるのは90年代に復刊されたモノ。
物語が、まるで童話のような優しさをまといつつ、ジュジュという風変わりな少女を主人公に語られたコトバに、当時、私は相当なインパクトを与えられたのでした。
私のココロに刻印されるがごとく忘れがたき影響を与えた一説。
今日もその冒頭からしみじみと読み進みます。
<ジュジュは、仕事と労働をきっぱりと区別していました。
仕事はして愉しいことをすることで、
労働はそれをしなければどうにもやってゆけないことをすることでした。
たくさんの仕事をじぶんにみつければみつけるほど、ジュジュはじぶんを自由にかんじました。
ジュジュのみつけた仕事は誰れにも意味はないかもしれません。
しかし、ジュジュは、欲しいものを手に入れることによってじゃなく、したいことをすることで、じぶんのかたちを、じぶんの一日の根っこにきちんと確かめたかったのです。
おおきさをもとめず、じぶんのちいささをちゃんと生きる。
ジュジュがじぶんに課したただひとつの、それが自律の言葉でした。>(8章 ちいさな生活)
私は、その時、大学卒業をまじかに控え、まさに社会に出るとば口に立って、実は途方に暮れていました。
理由は、働くというコトは、すべての自由を差し出して、お金をもらうコトと覚悟しつつ、しかし、そこから逃げ出したかったから。
しかし、働くということはそうゆうことではないよと教えてくれた。
つまり、しなければどうにもやってゆけないことをする「労働」以外に、愉しいことをする「仕事」もあるのだよ…と。
ならば、そうゆう生き方を模索しながら生きてゆこう。
この一冊は、その日の私のココロに、希望という灯りをともしたのでした。
以降、再読するたびに思うのは…。
実は、もうそんな好きなシゴトをする日々が許される時代になっているのでは?
…ということ。
いやいや、いつもは忘れて、生活のための労働だけを追っていはするのですが、時々、本を読んで正気に戻る。
日本は、なんだかんだといってずいぶんと豊かになって、生きるインフラ…特に大きいのはインターネットなどの普及でしょうか…も充実し、もしかして、ジョジョのように生きることは可能な社会になっていないか?
…と自分に問う。
そうかもしれないよねぇ。
そもそも、ヒロイン・ジョジョの暮らしは、多くの人が憧れるミニマリストそのものだし…。
活字の日だし、
気を確かに持つためにも本を読もう。
いや、何かの考えをまとめたものならインターネット内のブログだって、メールマガジンだってオッケーだと思う。
活字=文字は、立ち止まって考えるきっかけと、自分が思考と行動するためのヒントを不思議と与えてくれる。
それは、まるでカミサマが、リアルなメッセージを活字に乗せて伝えてくれているかのごとくです。
そして、みなひそかにそのことを知ってもいるから、思っているほど、ヒトは本からも活字(=文字)からも、離れていなかったりもする。
…と思わない?
◆今日は、2016年10月27日/旧暦9月27日/長月壬午の日/月齢26.1日
◆日の出5時58分 日の入16時51分/月の出2時30分 月の入15時11分