7月の第3月曜日の今日は「海の日」です。
…って、なんだって変則的な記念日&休日なんでしょう!
夏真っ盛りの上、休日ですし、そもそも学校関係は夏休みに入っている。
で、そこに「海の日」とか言われると「さあ海に行って遊ぼう!」という気分になりそうです。
が、国民の祝日に関する法律(祝日法)では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う」という、けっこう重々しい意味があるようです。
とかいって、海の恩恵とか、言われても、日本列島をぐるり護岸工事ばっかり盛んなくせに何を言う?
とか。
海洋国家とか言っても、なんか全然、海に囲まれていることから生まれる価値を活かしていない気するんですが
…とか思うばかり。
なんか、ちゃらちゃら海で遊んでばかりもいられない気分になりますね。
かつての、海の日は7月20日
そちらの由来は、明治天皇が、東北地方を巡幸された際、はじめて軍艦でない船に乗り、青森→函館と経由して横浜に無事到着した日だからとか。
記念日となったのは、やや時代にきな臭さが混じりはじめる1941年。
なんだか、ますますのどかさが遠のいてゆく感じですが、その年からしばらくの間この日は「海の記念日」と呼ばれ、平成に入って祝日「海の日」と生まれ変わり、さらに、いつでも三連休が可能なようにと、今のカタチとなりました。
四方を海に囲まれるわが国は、かつて新しき文化は皆、海の向こうからやってくるという時代が長く、海の幸やひとのカラダに不可欠な塩なども存分にいただきながら生きてきた。
しかし、一方、恐怖や災害までもいただき、悲しみ、打ちひしがれながらも、それによってやはり新しい知恵と自然を畏怖する尊いココロを得てきたのかもしれない。
と考えれば、ココロもカラダも海によって育まれてきた日本人は、法律で麗々しく意味づけされなくとも、そのことがDNAに刷り込まれているのかもしれません。
カレンダーを眺めて、「海の日」とあれば、何か無性に海を見に行きたくなる。
できるだけ海水浴客のいないひっそりとした浜辺を探し、目をつぶり波の音を聞く想像。
かんかん照りの昼日中よりも、早朝とか夕暮れ時に波うちぎわをそぞろ歩くのはどうかしら?
人のいない海の家で、海風と潮の匂いを感じつつ波音を子守唄に大の字になって眠る。
…いや、そんな暇な海の家なんてありませんか。
ならば、縁側が海の方向に張り出した古い民宿。
軒の深い家の座敷で、大の字に…。
あれれ、いつも、想像がお昼寝方向にばかり飛んでゆきます。
なぜかしら?
そうそう、海の日といわれて思い出すことがもうひとつ。
葉山の海岸沿いを延々いけば、葉山御用邸のとなりにちんまりとある「しおさい博物館」。
小さい建物だというのに豊富かつ丁寧な展示で奥深さを感じさせ、地味なんだけれど訪れれば去りがたい、なにか不思議な魅力を持ったその博物館のことを思い出しました。
そこは、まずエントランスの展示からふるっていて、巻貝が複数個ならべておいてあり、耳に当てて潮騒の音を聞けとあります。
ずっと前のコトですので、いまはどうなんでしょうかね。
「それでは遠慮なく...」とばかりに、入るときも出るときも全部の巻貝を耳に当てて「海の声」を聞きました。
1階は貝の展示で埋め尽くされ、地下は葉山を臨む相模湾の海洋生物の標本展示。
そこは、「押し付けがましい」雰囲気が皆無な場所で、だからゆっくり静かに、ひとのココロをとりこにする。
ああこの博物館そのものが、海みたいだ…とふと思ったものです。
そして、地下1階の片隅にひっそり、昭和天皇の研究展示があって、ああ、あのやんごとない方も海の生物に魅了された研究者でもあったんだなぁ…と。
そう思ったこともありありと思い出されます。
しおさい博物館の敷地のとなりには、美術館があって裏口どうしで繋がっていました。
その間の細い路地から見た海の様子が、とても好きです。
海岸へまっすぐ通じていて、沖合いに船が行くのが見えます。
バックミュージックは海鳥の鳴き声。
海風が潮の香りを運んできました。
海のことを思えば、思い出と想像の回路はこうして果てしなく開いてゆきます。
街に住む人にとっては、海に行く行為はちょっと特別。
海への小旅行は、なんとなく、ハレとケの中間ぐらいの位置づけをもっているような気もします。
私にとっては、少しだけ時間をかけてゆく、ほど良い距離にあるとても大切な場所です。
だから、怖い面をかすかに理解しながらも、相対すればふるさとにいるようにリラックスできる海の色、波寄せる光景、波音に海風と潮の匂い。
日本には、そんな人の絶対量が多いのでしょうか。
そうでなければ、「海の日」を祝日にするという発想もなかったかもしれません。
日本は「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている唯一の国」なんだそうです。
◆今日は、2014年7月21日/旧暦6月25日/水無月癸巳の日