消防記念日にかこつけ、「江戸火消し」考

火の祭りのある場所ならば必ず見かける火消しの半纏。正月、鳥越神社の左義長を見守っていた「ほ組」。

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煙でけぶっているのは、西日暮里の諏方神社どんと祭を見守ってうる「七番」の半纏。
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3月7日は消防記念日。
なぜこの日なのかというと、この記念日のよりどころとなった「消防組織法」の施行が1948年3月7日だったから。

この「消防組織法」とは、日本の消防の任務範囲や消防機関の構成などを規定する法律で、その重要な柱が「消防責任を市町村が負うこと」というところ。
かつて「消防」は、警察の一部門、つまり、国家の管轄でした。

それが、戦後、この法律によって「消防」が自治体に任されることになった、つまり、街の実情にあった「消防の自治」が認められるようになったともいえるでしょう。

で、「消防の自治」とくれば、もうそのルーツは「江戸の火消し」じゃあないか?
…などと思う。
思ってしまう。

どうも私、江戸の町民文化がめっぽう好きなもんでして、ちょっとお付き合いいただければと思います。

「火消し」と「火消し半纏」は、江戸時代の発祥

さて、写真の様な、「いろは」の文字や「○番」などの数字記号を背負った半纏。
これは、江戸時代に「町火消し」と呼ばれた人々の装束が発祥。
そして、「町火消し」が生まれたのは、江戸中期。
八代将軍吉宗の「享保の改革」に連なる制度のひとつとして発足しました。

ああだから、暴れん坊将軍吉宗は、お忍びでちょくちょく火消しの「め組の新門辰五郎」宅へ現れるわけね。
とひざを打つ。
…あらら、さっそく、横道にそれました。失礼。

吉宗による享保の改革は、教科書で習った通りに、「幕府財政の建て直し」が主目的。
なので、ひとたび起これば多大な出費のかかる「江戸の火事対策」は重要課題だったのは、火を見るよりあきらかです。

まずは、これまでの消防制度を見直し、特に町人地の消防に関しては、南町奉行・大岡越前守が主導して、町人消防組織「町火消し」が作られました。

「享保の改革」によってつくられた「町火消し」制度

「町火消し」とは、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当する「いろは組47組」と、東の本所・深川を担当する16組の町火消を設けたもので、同時に各組の目印としてそれぞれ纏(まとい)と幟(のぼり)も作らせました。

そして、当初は、火事場での目印の目的だったこれは、のちに各組を象徴するものとなっていきます。

数年後には、この「いろは47組」を一番組から十番組まで10のグループに分け、それぞれに「大纏(まとい)」を与えて統括。
より多くの火消人足を迅速に火事場に集められるよう工夫が凝らされました。

最終的には、「ん組」に相当する「本組」が三番組に加わって「いろは48組」に、四番組と七番組は縁起が悪いので欠番にして、それそれ五番組、六番組に吸収合併し大組は8組になり、本所深川の16組は北組・中組・南組の3組に分けて統括されたそうです。

…なので、実は、西日暮里の火消し半纏「七番組」(写真下)は、江戸には存在しなかったもの。
それがここに堂々とあるのも現代のご愛嬌です。

いろは組は、「へ=屁」「ら=摩羅=悪神」「ひ=火」「ん=終わり」に通じるのを嫌い、それぞれ「百組」「千組」「万組」「本組」に組み名称を変えて使っていました。

「火消し」とはいっても、当時の消防作業は、水で消火するのではなく、延焼を避ける解体作業。
燃えている家にはしごをかけて上り、鍬や鳶口で壊す「破壊消防」、今以上に命がけの作業です。

だから、江戸の火消たちは、その役割にはプライドを持っていた。
その象徴である装束の意匠や名前にこだわったのも当然のことなのでしょう。

江戸幕府は小さな政府。

ちなみに、町火消は町奉行の指揮下におかれながらも、その費用のほとんどは各町が負担していたのだそうです。
当時、江戸御府内の町人の人口は約50~65万人とも言われ、対して、町政をつかさどる与力同心が南北計290人。

まったくもって足りません。

だから、町人地の問題のあれこれは、費用を含め、町人の手によって治められていたのが実態で、「町火消し」はその最たるもの。つまり、火消しは町人の自治によったとも言えない?

江戸の町は、当時としたら相当高い経済力を持ち、政治や防災も多くは武士などあてにせずとも自分たちでなんとかし、経済的にもゴミが出ない完全循環型の街まで作り上げ、貧しいながらもあまり不足のない生活だったと言われています。

「江戸時代に戻るわけにもいかないし…」という言葉が時々発せられますが、今の日本の問題を解決するヒントは、けっこうこの時代にあるかもしれない。

温故知新で歴史からヒントをと言っても、たとえば日本史でメインとなるのは、江戸の政府のアレコレで、そこではなく、町人に習ってみたらどうだろう?

あらっ、またもちょっと脱線してしまってますね。

「町火消し」から近代の消防団へ

実際、この町火消しが明治以降の近代消防のもとになり、現在、町の防災をつかさどる消防団に繋がってゆきます。

だから、町会の面々が駆けつけ盛り上げる祭となれば、その中には、町会の一員としての消防団関係者もいるはずで、それが、火祭りならばなおさら。
写真のような火消しの半纏に出会うのは、当然といえば当然のことなのですね。

なので、消防記念日の行事だって、メインは消防士さんやら、消防自動車やらでしょうが、あんがい火消し半纏のいなせなお方もいらっしゃるのでは?
…ああ、また妄想してしまいました(笑)。