「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」とあるので、芍薬美人に牡丹美人、百合美人がそろい踏み、華やかにみんな同じ時期に咲く花かと思ってました。
しかし、牡丹、芍薬は、5月のGWを前後して花を咲かす春の花。
かなり間があいて、百合は今頃に咲く夏の花なんですね。
確かに同じ華やかさを持つ美人でも、芍薬と牡丹は豪華な着物が似合いそうな感じ。
一方、百合は、すくっと潔く咲いたという感じに、きりりと粋な浴衣美人が連想される。
花は、そんな理由で咲く時期を選んでいるはずはないけれど、それぞれ、一番美しく咲く季節にぴったり似合ったたたずまいをもつ不思議。
それは、自然のカミサマの工夫なのか、それとも花々にヒトが学ばされた感覚なのか…。
季節と花の組み合わせに、最初、かすかに驚き、ついで、その不思議さにとりこになってゆきます。
百合は、『古事記』にも登場する、日本に古くからある花らしい。
百合は、『古事記』の神武天皇伝説にも登場。
大和を征服し王となった神武天皇が皇后にふさわしい妻として選んだのが、大和の地主神の子とされる須気余理比売(スケヨリヒメ)。
その比売が住んでいた狭井河という場所には山ゆりが群生していました。
古事記には、「その河を佐ヰ河というゆえは、その河の辺に山ゆり草多にありき。その山ゆり草の名をとりて佐ヰ河となずけき。山ゆり草の本の名は佐ヰと云いける」とあって、“その狭井河は「百合の河」みたいな意味ですよ”といいたいらしい。
つまり、神の子にして天皇の妻になる高貴なひとの住まいですから、それを彩る役割として百合を登場させたんだろう…と、現代人はいいように解釈します。
確かにあの白く大きなラッパのような花を咲かせ、凛とたつ百合の花、漂う香りも芳しいあの花が、あたり一面に咲く様子は、美しいというより神々しいイメージ。
演出としてはかなり効いてて、神々の話を語るにふさわしいいちシーンではないでしょうか。
現代の百合は、そうそう自生種を見る機会もなくて群生するのを見るなど夢物語です。
実際どこかにあるものなんでしょうか?
花屋でも、1本、思い切って2本…と惜しんだ買い方しかできない高価な花で、それが、河の辺に「山ゆり草多にありき」とは、一度でいいから眺めてみたい光景です。
百合の園芸品種の歴史はそう長くありません。
古くから、多く自生していたらしい百合も、人の手で育てるのはかなり難しく、百合が観賞用として栽培されるようになったのは、ようやく江戸時代も末になってから。
それでも、栽培が難しければ珍品扱いで希少価値も高く、当時、豪商や大名・旗本たちの間で売り買いがなされていたのは想像にかたくない。
百合のひと鉢には、もしや想像を絶する値段がついていたかもしれません。
明治に入ると、今度は外貨獲得のために、百合はせっせと海外へ輸出されはじめます。
当時の外貨獲得に一役買ったのは生糸でしたが、百合の球根はそれに次ぐ2番目の主要輸出品だったそうです。
明治初頭の外貨獲得は、日本近代化のための急務とされたのは近代史が語るとおりで、つまり、平たく言えば、それは日本に軍事力をつけるための政策でもあった。
明治の日本人は、絹と百合という非常に高貴で美しいものを売って、せっせと戦争の道具=軍艦を作る羽目に陥っていたというわけです。
歴史は、そうして悲しい思いをたくさん潜り、現代にいたります。
絹は、フランスのルーブル美術館などを訪ねれば、日本から輸出された絹製品がコーナー展示されるほどだと聞きますし、百合は、盛んに海外へ輸出されたあと、現在ヨーロッパで見られるその多くは実は日本産のものなのだそうです。
外国から入ってきた園芸種が日本のものを席巻する例は数多くありますが、こうゆう事例は実は希少。
大量に売り飛ばされていった「日本の百合たち」も、あちらの国でも元気で大切にされているのかぁ…とそのたくましさが感慨深く。
しかし、その大もとをたどれば、あまり喜べない、少し悲しい百合の歴史であるものです。
◆今日は、2014年6月22日/旧暦5月25日/皐月甲子の日