東北の盂蘭盆会は、月遅れの8月中旬。
8月13日に迎え火を焚いたので、ご先祖様がたはもう道に迷わずいらっしゃったはずです。
あけて14日は、早朝から寺に檀家があつまりお盆の法要…というのもここ数年、大切な行事となりました。
東北・福島にある檀家となっているお寺のお盆法要は、マジでかなり本格的。
訪ねれば、まずは、大きく開けられた本堂の南側。
そのカラフルな幟状のしつらえが、毎年目に新しいのです。
ご先祖サマは、これを目印にして、この南側の入り口からお入りになり、一緒にお盆の法要に参加なさる…らしい。
扉の手前には、精霊棚が置かれ、そこにならぶ、米や野菜のお供えの様子がまたあまりにも素晴らしく。
お焼香の際はひときわゆっくり、ココロの中で歓声をあげ、しばし目を楽しませる。
…って、いいよね(笑)
(実は、毎年、写真の1枚も撮らせていただきたいんですが、さすが憚りがあって、撮ったことはありません)
さて、法要が始まる前に話は戻って…。
檀家たちは、三々五々といった感じで境内に集まり。
私といえば、いつもの(私的には)ベストポジションに席を取り、鐘や木魚などを眺めて待つ。
ちょっと近づいてみれば、この巨大な木魚は継ぎ目がなく!
大きな木の幹をくりぬいて作られたもののようです。
掲げられたお釈迦様の絵とかも子細に眺めつつ待つ。
ここのお寺は、400年以上も続く場所で、そうゆう営々とつながるものの証のように、置かれてあるのは、さまざまな宗教的名品。
…と思って(たぶん外れてないと思う)眺めるのがまた楽しい。
この寺の盆の法要は、13日の新盆(亡くなった方のはじめてのお盆)と今日14日に、それぞれ、7時、9時、11時スタートの合計6回。
こうして、待っていると、やがて、広い本堂がほぼ満員になり。大型の冷房機で寒いぐらいだった境内が、かなり暖かく感じられるほど。
聞けば、他の会も、すべて満員だとかで、とすれば、新盆の法要にもそんなにたくさんの方がなぁ…といつも思う。
父が逝ってから「大切な習慣」のようにもなった盆法要も今年で13回。
毎年同じコトの繰り返しに見えて、それでも、何かしらの発見がある。
寺の住職は話上手。毎年、法要の最後の説法が興味深い。
特に、2011年の説法は、当然のコトながら東日本大震災のことに触れた。
私たちの寺の住職はもちろん、この街の僧侶たちは、みなボランティアで火葬場へゆき、お見送りの供養をした。
「日がな一日、ご遺体を見送る方は、たった二人。霊柩車の運転手さんと、市の職員だけ…。身元がわかりませんからね」
と聞いて、少し苦しくなった。
その記憶は、何か非常に大切なコトを教えられたかのようなモノとして私の中に鮮明に残っている。
そして、もうひとつ。
「身元不明者の身内を持つ方々の多くが、悩み悩んで、お盆の直前になって死亡通知をだしたのだそうです。」も忘れがたい説法。
そうは思いたくないけれど、もしも逝ってしまったなら、帰ってくるところがないとかわいそう…と。
お盆は、亡くなったひとたちが帰ってくる日。
見えないけれど、どこかでそう信じているから混んだ新幹線も我慢して、日本人は民族大移動をするのだ。
跡継ぎの副住職さんのほうは、お経を奏でる声が朗々として、聞き惚れる。
詠まれるお経は、きちんと刷り物にして配られて、それを毎年繰り返し聞いて、お経に書かれているコトじたいに興味が湧いたのはこの法要のおかげてある。
お経について学ばなくちゃと、文献を探せば、けっこう素人向きに出版物も多く、そこにも微かな驚き。
こうした行事のそれぞれは、逝った方々のために行っているようでいて、生きている人々のためにこそある。
…とは、最近気づいたことでもあって、こんな行事のアレコレが、流れる日常に、ポンと句読点みたいなものを添えてくれる。
そこで、ヒトは、ちょっとだけ我に帰って呼吸して、何かを振り返ってみたり、時には苛立ちを鎮めたり。何か新しい道を見つけるきっかけとなったり。
これらの行事は、まるで逝った人からの贈り物のようだなぁとも、思っている。
◆今日は、2014年8月14日/旧暦7月19日/文月丁巳の日