旧暦時代に生まれた著名な方の誕生日。
それを、新暦時代の現代に祝う時って、新&旧暦どちらの日付を選んだらいいかしら?
故人となった作家は、命日を記念日として祝うコトが多いけど、個人的には、この世に生まれてきたコトをありがたいと思いたい。
当ブログでは、時々、好きな作家の誕生日を「365日の暦日記」のテーマにするのですが、その際、決めかねるのが、旧暦時代生まれの方々の誕生日。
特に、旧暦→新暦を生きた方の場合って、自分の誕生日をいったいどちらの日付で認識していたんでしょうね。
…実は、ちょっと聞いてみたいです。不可能だけどね。
で、今日の悩みは歌人・正岡子規の誕生日。
生まれた時代は、旧暦なので、9月17日。
しかし、新暦時代の現代は、正岡子規の誕生日を調べると、おおむね、それを新暦に換算した10月14日となるみたい。
うーん。でもな、やっぱ、最初に認識したほうでしょうよ。
…と勝手に決めて、私の中では、正岡子規の誕生日=9月17日としている次第。
というコトで、今日は、正岡子規の『仰臥漫録』読む
実は、我が書棚には、正岡子規の著作が3冊。
この『墨汁一滴』、『仰臥漫録』、『病牀六尺』は、病床にあった最晩年に書かれたもので、誕生日の今日は、そこから1冊持ち出して、カバンに入れる。
電車の移動や、ランチ、お茶などの時間に取り出して、拾い読みする…。
好きな作家の本は、こうして誕生日に何回も読み返すのが、私のささやかな習慣でもあって、子規の場合はこの三冊を繰り返す。
ずいぶん前に訪ねた根岸の子規庵が、まわりの喧騒から結界を作っているかのような佇まい。
その小世界があまり素晴らしく、何か子規に関連あるものが欲しくて発作的に買ったのが、今年読もうと思った『仰臥漫録』。
買ったその日も、そのままページを繰って読み始め、夢中になって、そしてうちのめされた。
本書は、子規が亡くなる前年から2年間の間に書かれた日記。
長く結核を病み、やがて併発した脊椎カリエスによる排膿に苦しみ、亡くなる前年にはひとりで起き上がるどころか、寝返りも打てず、そのすべては仰向けになったまま描かれた。
だから「仰臥」。
日々は、食べたものと便通の回数、包帯取替えを淡々と記録しはじまり、終わる。
そして、ほととぎすの仲間たちの来訪とおびただしい数の俳句。
時々、添えられた子規による絵が何かほのぼのとして、しかし、それを描いた子規の様子を想像すれば壮絶でもある。
病床から眺めていた糸瓜だなは、現代の子規庵にもこんな風に存在する。
絵は、時々、モダンな抽象画のように描かれていたり、ユーモラスな写生だったり。
病状は徐々に進行し、体のあちこちにはカリエスによる穴と膿にまみれ。
飲食したものはー好きなココアミルクであってもーカラダに吸収されず、1日何回も排便される。
死はあきらかに目前にせまっているが、日記には、暗さがなくて、かえっていきいきと生命力にあふれ、時にユーモアで満ちている。
過酷な病状の描写にまずうちのめされて、しかし、それでも俳句を読み続け、病床周辺の狭い世界に広い宇宙を見続けた正岡子規というひと。
「自分は何故生かされているのか」という世の役割を知ったひとのしなやかな強さに、もっともっと深くうちのめされた。
モノの魅力を解く補助線のように
まったく興味のなかったものが、数学で言う補助線を引くかのようなことに出遭って、とても魅力的で見過ごすことはできない大切なものに思えてくる。
正岡子規というひとの書いたものには、句であれ和歌であれ、随筆であれ、そんなチカラがあるように思えたのが、興味をもった最初。
ことに、病床にあった最晩年の三作は、病床というささやかな世界にありながらココロはどこまでも自由。
1日数行の世界に、さまざま魅力に満ちたことどもを提示して、そのものの見方考え方が、読者にとっては、そのまま世界を面白く眺める「偉大なる補助線」のような役割を果たしています。
読者の多くは、ここからさまざまな教えを請うたはず。
少なくとも私はそうです。
『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』な晩年に読者が教えられるもの
その著作のすべては仰向けになったまま描かれたから随筆は長くても20行が限度。
だから「墨汁の一滴」のように短い中に思いつくままに描こうとした。
そして、仰向けだから「仰臥」。
そしてまったく動けなくなった最晩年の子規の世界は「病床六尺」。
ひとたびそれらを紐解き始めれば、子規の興味は、浮世絵をはじめとし、国内外の絵画に造詣深く、能狂言、もちろん句や和歌…と、まずは、教養にあふれた話が縦横無尽という感じで展開するフィールドの広さ。
そのいちいちが独特なものの見方で面白く、いったいこのひとは病床にいてどこからこんなにも詳しく深く世界を眺めているのかと思います。
と、思えば、その視野は身の回りに舞い戻る。
今度は、病床近くにおかれた些細なものから、眺められる範囲の庭の花々のことなど。
それがまた身近にある凡庸だと思い込んでいたもののなかにヒカリを発見する面白さを教えられることでもあって、そうゆうところだけ、もう何度拾って読み返したものでしょうか。
六尺の病床で、死をまじかに意識して、わが身の状態までもを淡々と書くことになる。
なのに暗くもなく感傷もなく、またそこから、どこかへと思考がひろがってゆきます。
ひとたび、読者として正岡子規というひとに対峙するならば、まずは、過酷な病状の描写にうちのめされるはずです。
しかし、それでも俳句を読み続け、病床周辺の狭い世界に広い宇宙を見続けた正岡子規というひとのことを思えば、「自分は何故生かされているのか」という世の役割を知ったひとのしなやかな強さに思いいたることになります。
そして、読者は、けっきょく、その非凡さにもっともっと深くうちのめされるのです。
今日は、そんな正岡子規の誕生日。
9月19日がその命日である「糸瓜忌」として有名ですが、逝った日よりも生まれてきた日に敬意を表し、静かにお祝いいたしたいと思います。
生まれて生きていただきありがとうごさいます。
◆今日は、2014年9月17日/旧暦8月24日/葉月辛卯の日
◆日の出 5時25分 日の入17時46分/月の出23時54分 月の入13時17分