芭蕉に読まれ、子規に描かれ、荷風に選ばれた花・秋海棠が咲いています/10/7=旧9/14・辛亥

秋海堂

秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり

と 松尾芭蕉に詠まれるほどに、花は絵具で塗ったものをさっと水でぼかしたような淡い紅。
たしかに、西瓜をふたつに割って、紅く瑞々しい切り口を眺めたときのような爽やかな色合の花です。

それが、花だけでなく茎まで紅色に色づいて、よくよく見れば、葉っぱもかわいいハート型。

こんなに正統な魅力満載の花なのに、なんとなく日陰の花のイメージがあるのは、民家の垣根や家の日影のややじめっとしたところに花咲かせるからなんでしょうか?

夏から秋にかけて、草の高さは70センチ前後にも伸び、葉っぱも大きく、実は、のびのび育てるのに、そこそこ広い場所が必要ですが、やや楚々としたたたずまいのせいなのか、民家の庭によく生えてるのを見つける人気の園芸品種のひとつです。

最初にこの花を知ったのは、根岸にある「子規庵」の庭。

100坪はあるだろうかという前庭は、一瞬、夏草で茫々に覆われたといった様相。

草に近寄ってみれば、それらは、庭の草花。
ひとつひとつは、大切に世話されているのでしょうが、その世話に仕方が、どれひとつ駆除されることなくすくすくと育てているから、一瞬、茫々と見えたのでした。

庭石のあたりに点々と蚊取り線香が置かれている。
それは、庭を眺めるならば、やぶ蚊にご注意くださいねということらしく、ときどき、パチンと蚊を叩き落としつつ、庭石に沿ってぐるりと回る。

晩夏から秋にかけては、この庭も案外花が少なく、しかし、子規といえばの糸瓜は実り、そして、そのすぐ近くに秋海棠がひとつ可憐な花を咲かせていました。

子規の描いた秋海棠

ひっそりとした子規庵のさらにひっそり小さなお土産&資料コーナーに偶然、秋海棠が描かれた便箋がおかれてあって、「正岡子規が描いたものです」と教えられて手に取ります。
それは、子規の晩年、みずから「草花帖」となずけた画帳に、庭の花や木の様子を写生したものの中からとったものだと付け加えられれば、そのまま去りがたくなりひとつ買い求めました。

秋海堂の便箋

その便箋は、なぜか今も使えず手元にあって、ときどき、その秋海棠の絵を眺めつつ、花の時期にはまた本物を眺め…と何巡りかを繰り返し、いまや、とてもなじみある花にもなりました。

秋海棠は、可憐なだけではなくて、観察するにも面白い花。

夏のはじめごろに、葉のつけねに「そろそろかな」といった感じで紅色の花茎を伸ばし、やがて花を咲かせますが、しばらくは雄花ばかりが咲き続けます。
最初の開花ののちに花の茎が2つに分かれ伸び、そこにも新たな雄花、そしてさらに2つに別れ…そんな雄花ばかりの開花を数回繰り返し、最後にやっと雌花が咲く。

これは、まだ雄花の時期。

秋海堂 尾花

雌花は、この先観察を続ければ、三角錐のようなカタチで下向きにうなだれて咲きますのでよく区別がつくはずです。
秋海堂 雌花

そして、その花が終わったあとには、楕円形の種子をつけ、加えて、葉のつけねにも数個の「珠芽(むかご)」をつけてみせる。

秋海棠は、球根で越冬する多年草種でありながら、種子でもこのむかごでも繁殖するのだそうです。
冬越しのために茎葉が枯れるころには、むかごが地面に散らばって、そのまま忘れて春を迎えれば、新たに芽を出し、そうして少しずつその陣地を広げてゆきます。

昭和・新七草の候補でもあった??

昭和のはじめにどこかの新聞社の企画で「新・秋の七草」の選定が行われたそうです。

秋海棠が日本に渡ってきたのは江戸時代ですから、万葉集時代の秋の七草に選ばれようもありませんが、新七草には、その名がきちんと数えられております。

選んだのは時の著名な作家・学者たち。

一人にひとつずつあげてもらうというカタチで選んだのだそうですが、秋海棠の選者は、永井荷風です。

子規の庭で出会い、また、永井荷風などに選ばれた花と思えば、とても玄人受けする花のようにもおもえてきますね。

ちなみに、秋桜、白粉花、犬蓼、葉鶏頭、菊、彼岸花に秋海棠が新しい七草の仲間なんだそうです。
万葉の時代よりやや華やかさが増しましたが、けっきょく山上憶良の七草ほど一般的にはならず、そこがちょっと残念なところです。

◆今日は、2014年10月7日/旧暦9月14日/長月辛亥の日
◆日の出5時40分 日の入17時17分/月の出16時28分 月の入3時55分