東京地方では、やっと本来の菊の季節を向かえ、各地で菊まつりが始まります。
その最初が、10月11日・12日の谷中の菊まつり。
今年もそこで求めたのだろう菊の鉢植えが街中を飾っております。
谷中界隈はかつて菊まつりが江戸東京随一に盛んだった場所。
今でこそ、開催場所は大円寺境内のみで、楽しいながらもこじんまりとした菊まつり。
(詳細はコチラ→TAITOUおでかけナビ)
しかし、幕末から明治期にかけては、不忍通りをはさんで、大円寺とは反対側の千駄木団子坂あたり。
そこには、多くの富裕な植木職人が住み、その庭園を花のショールーム代わりに庶民に開放。
そこで、かなり盛大な菊の催しが開かれたそうです。
たとえば、広重の描いた名所江戸百景のひとつ「千駄木 団子坂 花屋敷」。
描かれているのは桜の季節ですが、実際に、梅や桜の季節には、庭園を眺望できる崖上に『紫泉亭』と呼ばれる、今で言えばカフェレストランのようなものを開いたのだそう。
江戸人たちには、飲食をしながら絶景を眺められるとたいへんな人気を呼びました。
それが、重陽の節句になれば、今度は、団子坂の途中に「菊見せの場」が軒を連ね、最初は菊の花の観賞と菊酒を楽しんだ。
それが、やがて、菊人形細工の見物へと発展していきます。
その様子は、いつもの『東京年中行事』(2巻 若月紫蘭著 東洋文庫)の10月暦の章。
<団子坂の菊人形は、東京に於ける名物である>
とまずきっぱりと宣言され、続いて、明治42年のその様子や歴史が、かなりのページを割いてことこまかに描かれていました。
それによれば…。
・菊人形が作られたのは、元冶元年。
→黒船もやってきて日本は列強に開国を迫られていた頃。
歴史的な大事件のさなかでも、町人たちはまだまだのどかに暮らしていたようですね。
当時はまだ、植木屋の手慰み程度のものだったそうで、通りがかった人々に無料で見せていた。
・明治維新でいったん途切れる。
・復活は明治8年ごろ
→小屋掛けをして菊人形を飾り、木戸銭をとって本格的な見世物としてスタートを切ります。
そして、以降、どんどん大仕掛けになっていったのだそうです。
すごすぎる植木屋「種半」による大仕掛けの菊人形
その様子も『東京年中行事』(2巻 若月紫蘭著 東洋文庫)にあります。
<舞台の背景には回転パノラマ式というのをもちいて、序幕が日本橋の天王祭、芸妓の金棒引きが二人、若衆が五人出るのから始めて、保土ヶ谷宿の早飛脚、箱根の紅葉、沼津の平作、岡崎の猫、草津のムカデ、四日市の龍宮、今日の四条の夕涼みと言うように、二尺余りの小人形をせり出しては東海道五十三次を目の当たりに見せ…>
小人形とかいってますが、二尺=約60センチ。
菊を使った細工で精巧に作るとなるとけっこう大変なコト、それを日本橋から京までのミニチュアを作り延々とつなぐ趣向。
加えて、時に、太夫たちを使って出語りまでさせたというから、もうこれは、ひとつのエンタテイメントショー!
うーん、すごそうです!
タイムスリップでもして、その現場を見てみたいっ!!
大円寺の「谷中の菊祭り」は、往時の息吹を復活・継承しようとしたもの。
団子坂の菊人形は明治10年ごろまで全盛を極め、一時は秋の東京の一大風物詩とまでいわれました。
しかし、いつしか大所帯の植木業は成り立たなくもなって、団子坂の植木屋はひとつふたつと廃業。
後続の菊人形の人気にもおされ、明治末期には衰退してしまいます。
大円寺の「谷中の菊祭り」は、それを今に復活しようと、ごくごく最近の1984年に再スタートしたものなのです。
境内をまわれば、名人技の懸崖造りの鉢や菊人形も飾られて、縁日、パレード、雅楽の演奏やらにぎやかで楽しい二日間。
街が手作りで復活させたといった風な、愛すべき、そして珠玉の菊まつりとなっております。
で、私も菊の鉢を買ってみました。
小ぶりながら、まだまだたくさん蕾が付いて、どんどん咲くよ!
…ってホントかな?
菊もそうだが、私としては、小判でつくった飾りがちょっと欲しかった(笑)。
さて、谷中の菊まつりが終わって、しばし。
今度は、10月中・下旬から、巣鴨・浅草・亀戸・湯島など都内各所でも菊祭りが開催されます。
その様子は、またここで書かせていただこうと思っております。
単なる菊と侮れないすごさですよ。
乞うご期待!
◆今日は、2014年10月12日/旧暦9月19日/長月丙辰の日
◆日の出5時44分 日の入17時10分/月の出20時04分 月の入9時23分