12月14日は、赤穂浪士の討入りの日。
転じて魂を慰霊する義士祭です。
場所は、高輪泉岳寺。
いつもは静かな境内にも提灯が灯され、参拝者も大勢。
提灯の向こうには、赤穂浪士たちの墓所があるのですが、人が多くてなかなかたどり着けません。
そこをなんとか並びぬき
→お参り。
その後は、赤穂浪士に扮した一行による「義士行列」を粛々と待つのです。
まずは、世に言う元禄赤穂浪士事件、あるいは赤穂浪士の討ち入りの全容を
・時は、元禄15(1702)年12月14日(旧暦なので実際は1月30日)の深夜。
赤穂藩の旧藩士47人は、本所・吉良邸に討ち入り、激闘の末、吉良上野介の首を取り主君のあだ討ちを成し遂げました。
吉良上野介の遺体は寝所に安置し、大石内蔵助をはじめとした四十七士は、首のみ槍の先に掲げて吉良邸を出ます。
最初、吉良邸に程近い回向院に向かいますが、受け入れられません。
なので、一行は、そのまま主君浅野内匠頭が眠る高輪泉岳寺に向かうのです。
・吉良屋敷から高輪泉岳寺までは、距離にしてほぼ10キロ。
その距離を、四十七士は、戦闘用の重い装束を纏い、激闘後の疲労を背負い、約2時間半で歩ききったとされます。
その晩は、雪が深々と降り続けていた。
というは、芝居のために書かれた「仮名手本忠臣蔵」の脚色らしいのですが、新暦に換算すると1月末のことなのでありえたかもしれません。
泉岳寺山門に着いたのは、辰の刻(午前8時ごろか…)。
住職によって境内に入ることを許されて、墓前に吉良上野介の首を供え、亡き主君にあだ討ちを報告しました。
・幕府は、この討ち入りを仇討ちとは認めず浪士たちは切腹。
この時代、切ったはったで人を危めても、作法にのっとり仇討と認められれば罪に問われることはなかった。
しかし、赤穂浪士たちの行いは、仇討とは認められず。
遺子も、出家した者を除き15歳以上の男子は流罪…と、重い罪に処せられてしまいました。
大雑把で恐縮ですが、これが、世に言う元禄赤穂浪士事件、あるいは赤穂浪士の討ち入りの全容。
ということで、今日の「義士祭」の位置づけは、この悲劇の四十七士の慰霊祭なのです。
境内では、四十七士人気の凄さに驚愕しきり!
ちなみに、普段の泉岳寺の境内は、他の寺社がそうであるのと同じ静寂な場所。
そこに、四十七士の墓が仲良く並び、他の日ならば、墓参に訪れるヒトだって疎らなはずです。
それが、12月14日のみは、墓参に訪れる人々の数がもちろん。
それを目当ての屋台やらで、普段静かな高輪の界隈が、信じられないぐらいの賑わいをみせます。
特に、墓所までの道は、墓参の人が長蛇の列をなし、昨年は墓前に行き着くまでには小一時間ほど掛かりました。
ホントに、日本人の四十七士人気ってすごいんですねぇ。
毎年、正月になれば、この事件に題をとった時代劇「忠臣蔵」が放映されるわけも分からないではないなぁ…と思う次第でもあります。
そういえば、今年の年末年始はとうなのかな?
ドラマの放映とか、聞かないですよね?
今度は、赤穂浪士事件をざっくりと
ええーっと、ざっくりとばかりで恐縮ですが、まあ、有名なお話なんでそれでいいかなぁ…と(笑)。
・この元禄赤穂浪士事件の発端は、
赤穂藩の君主・浅野長矩が、江戸城松の廊下で、吉良上野介義央に切りつけたコト!
お芝居などでは、「殿っ!殿中でござるっ!」という有名なセリフが発せられるシーンですね。
当時、刃物は禁忌の江戸城の中。
これはもう事件中の大事件として取り扱われることになるのです。
・結果、浅野長矩は即日切腹。
赤穂浅野家は断絶。
・しかし、切りつけられた吉良義央には何の咎めもなかった。
あたりまえ?
…とも思うのですが、当時は、喧嘩両成敗が基本ルールの時代。
しかも、取り調べもなく即日切腹というのもかなり解せない話です
だから、「浅野が何故、吉良に切りつけたか?」に関しては、いまだ謎の残るところ。
浅野→吉良への遺恨が一般的な理由とされていますが、浅野乱心説もなども伝えられている始末です。
もしかして、こういった謎が『忠臣蔵』という人気の物語が生まれた背景にあるのかもしれません。
が、実は、物語を紐解いても、現代人の私には、ちょっと解らない事の多すぎる事件でもありますね。
・お家断絶となれば、家臣たちは、身分を剥奪、所領と家屋敷を没収。
赤穂の藩士たちは、浪人になって、江戸や上方など、とりあえず生きる道を得るため都会へと散ってゆきます。
メンツはつぶされ、シゴトも住まいも、ぜーんぶ失くした赤穂浪士たち。
もう、採る道は、討入りしかなかったんでしょうねぇ…。
「忠臣蔵」は、「忠」義ある家「臣」の話。
…なんですが、この状況を考えると、現代人の私はそのタイトルどおりの読み手にはなれません。
・真の目的は、生業をとりかえすコト。そして、忠義は大義名分だったのかなぁ。
ああ、ごめんなさい。
などと洩らしてしまえば、「日本人にとっての武士のココロは、はるか遠いものになってしまった」などと、墓の底から嘆かれそうな気もしますが、真相を手繰ってゆけば案外そうゆうことだったんじゃあないでしょうか。
…どうでしょうか?
義士祭のハイライトは、「義士行列」
いろいろ、思うこともありながら、ココに来た以上は墓参は不可欠。
列にならんで、お線香を手向け、お参りをすれば、あとは、「義士行列」を待つばかりです。
この行列は、四十七士に扮した一行が、両国の吉良邸跡地から、赤穂浪士がたどった経路を歩き泉岳寺をめざすモノ。
まだまだやってこないそのハイライトを見ようと、にぎやかな境内を物色しつつ、その時を待ちます。
境内の「討ち入り蕎麦」がやや物騒だ!とか。
「切腹最中」ってネーミングはどうなのか…とか。
私って、けっきょく罰当たり?
としか思えない突っ込みを入れつつウロウロとすれば、屋台のおじちゃんが「もうそろそろ来るんじゃないの!」などと教えてくれる。
これは大変!
と山門を出れば、前の通りは、それをひと目見ようという人々で、両側ともびっしり!
ちょっとだけすみません!と場所を確保して…。
「両国から歩いてくるんですってよぉ~」
「雨が降らなくてよかったですねぇ」
「雪なら雰囲気でたのにねぇ」
…などと、見知らぬ同士でおしゃべりが楽しかったりもします。
ほどなく大石内蔵助を先頭に四十七士たちが坂道をあがってきました。
先頭は、大石倉之助(…の扮装)。
この鉄兜の装束、なんとなく記憶があるのは、やはり、ドラマ『忠臣蔵』の番宣とかのなせるわざ。
(すみません。実は、ドラマは一度も見たことがありません。)
忠義の意味とか難しいことはさておいて、往時の装束を身に着けた姿が連なる列は、けっこう長々と続きます。
文句無くかっこいいですねぇ。
いいのかそれで?
まあ、いいのですお祭りですし。
以上、昨年の「義士祭」の様子をお届けしました。
今日向かわれる方は、どうぞ選挙権の行使をお忘れなくね。
◆今日は、2014年12月14日/旧暦10月23日/神無月己未の日/下弦の月
◆日の出 6時42分 日の入16時29分/月の出23時40分 月の入11時26分