1945年東京大空襲の日は、1990年東京都平和の日となりました。

3月上旬ごろから芽吹き始めた下町の「しだれ柳」。
そろそろ葉も出始めました。

柳

春は、梅に寒桜、椿と追ってもまだそれは寒い頃。
しだれ柳が芽吹き始めると、本格的に寒さからも開放される予感が増して、いよいよ春だなぁと感じます。

といっても、まだ寒い暖かいの差が大きい季節であることには違いなく、暖かくなったなぁと思えば、突如、北西の強風が吹き冬に逆戻り、まだまだ柳も寒さに震えなければなりません。

温暖化だ、異常気象だといっても、春と冬の境目は、昔から、おおむねこんな風。
そして、69年前の今日も、ちょうどこんな天気だったようです。

1945年3月10日は、東京大空襲があった日です。

その日、東京では春とは思えない強い冬型の気圧配置に覆われ、強い空っ風が吹いていました。

前夜の22時30分に警戒警報発令、二機のB29が東京上空に飛来しましたが、これはいったん房総沖に退去したふうに見せ掛けたため、警報はいったん解除。
しかし、日付が変わった10日深夜零時数分すぎ、焼夷弾の第一弾が東京の街に投下されます。

東部軍管区司令部にも油断があったのか、そのとき、空襲警報は鳴りません。
やっと、零時15分になって空襲警報発令。
それから約2時間半の長きにわたって、東京の町は、アメリカ軍による波状絨毯爆撃に襲われることになるのです。

集中して狙われた、東京の下町エリア。

江東区・墨田区・台東区にまたがるあたりの住民は、激しい炎の壁に四方の行く手を阻まれました。

強い空っ風は、さらに、火の勢いを煽り、犠牲になったほとんどの人は、女性、子供、老人と非戦闘員ばかり。
皆、逃げ道を断たれ、ただただ炎の犠牲になって、その姿カタチや性別がわからないほどに徹底的に焼き尽くされたのです。

この日、東京に投下された焼夷弾は、日本家屋を燃やすことを目的として新たに開発されたものなのだそうです。

アメリカ軍は、東京空襲に際して、関東大震災の被害実態を詳しく検証。
木造住宅が密集し細い路地が入り組む下町がもっとも火災に弱いことを突き止めます。
そして、使用する爆弾は、破壊力、爆破力ではなく、燃焼力をメインにしたものを採用しました。

アメリカ軍のリサーチ力と開発能力、そして戦中に新しい兵器を開発する資金力の余裕を思います。

しかし、それと差がありすぎる日本をここまで徹底攻撃した意味はどこにあったのでしょうか?

一方の日本。
もう資源も食料も枯渇、戦争の行方も「大本営発表」で大嘘をつく、国家として末期症状であるにも関わらず、それでも戦争をやめられなかった理由は何?

もう誰がどう悪いとか言う以前に、世界中の思考が麻痺していたとしか思えない、それが歴史的事実としてもっとも怖いと思うのです。

そして、空襲当日。
東京の街は、アメリカ軍のシミュレーションどおりに、関東大震災を上回る壊滅状態となり、10万人以上の死傷者を出しました。

そして、焼夷弾を落とす目的の街は、他の日本の主要都市へと広がり、沖縄の本土決戦。
広島、長崎の原爆投下へと、ただひたすらに禁じてである一般市民の犠牲へと繋がってゆくのです。

69年続いた希少な平和

戦争…。

それから69年の長きにわたって、それを再度体験することなく来た日本、そうゆう国は実は希少です。
それは誇ってあまりあることだと思います。

しかし、のど元はとっくに過ぎて、努力しなければ、その殺戮、悲惨、恐怖…の実感はどうしたって沸いてこない。それどころか、近ごろきな臭いコトばかりが浮上する政治情勢。

これまで、戦争に巻き込まれなかったのは、実は非常に幸運な偶然でしかないのかもしれません。

この目で見たい、330人の証言

東京都は1990年に、「空襲犠牲者を追悼し平和を願う」ことを目的として、今日、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めました。

そして、平和祈念館の設立を決めそこで上映する証言フィルムの取材、編集に入ります。
証言者は330人。

しかし、私達はそれをまだ見ることはできません。

行政の勝手な意図=つまり財政困難などのつまらない理由で、祈念館の建設は頓挫し、証言フィルムは都内の倉庫に延々眠ったままもう四半世紀が過ぎようとしています。
当時でさえ高齢だった証言者もずいぶん多くの方が亡くなってしまいました。
過去のテレビ番組だって、インターネット経由で見る時代、せめて、デジタル配信などはできないのだろうか?
…とも思いますが、そんなニュースも流れてはきません。

こんなところにも感じる、のど元を過ぎた油断と適当さ。
行政は、どうゆう価値基準で仕事の優先順位を決めているのでしょうか?
それとも大きな圧力でもあるのでしょうか?

疑問です。

今日は、69年前、私たち日本人はどういう目にあったのかの事実を、ただ淡々と紐解き、繰り返し繰り返し想像してみるその日。
それは、一年にこの日を含め数日だけの習慣でもかまわない。

しかし、それは私たちの義務であり権利なのだと思うのです。
だから、その330人の証言フィルムも見てみたい。

忘れない義務、想像する義務は、やがて、2度と戦争を体験しなくてすむ権利にも繋がってゆきます。