道真公のご命日・神忌祭にちなみ、天神様のコトを知る/旧2/25・乙未

2月25日は菅原道真公の命日。

亀戸天神では、先月の新暦のこの日は「菜種御供」という行事が執り行われました。
そして、旧暦2月25日の今日は、もうひとつの供養祭事「神忌祭」が行われます。

始まりは、太陽が沈んだばかりの午後6時ごろ。

宵闇に包まれつつある境内を、白布で覆われた四角い絹垣(きぬがき)といわれるものが、中に天神様の魂をお乗せして、松明で照らされ静々と巡ります。
絹垣には、天神様に縁深い紅白の梅の枝がすえられているそうで、それを天神様の魂と見立て、境内をめぐる行列は、そのまま道真公の葬列を模したものだそうです。

辺りにはひそやかに奏楽が奏でられる。
そして、天神様の魂ともに、境内に咲き誇った梅が松明で照らされ、それはそれは荘厳で美しい光景が繰り広がるのです。
年中行事の多い亀戸天神でも、これは、もっとも印象深い祭事のひとつ。

って、実は、まだ一度も行ったことがなく、上記は、亀戸天神のサイトを読んでの想像です。
(ああ、今年はいけるかな?⇒結局いろいろあって、無理でしたっ!むーん。)

なので、コチラ(亀戸天神公式サイト)で見ていただくとして、代わって、今日は、島根県出雲地方に古くから存在する工芸品「出雲五色天神」の写真を1枚。

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併せて、菅原道真公と、のちにカミサマとなられた天神様をしのび、この方について復習を少しさせていただく次第です。

菅原道真公=天神様が、「学問の神様」について

天神様のお守りに学業成就鉛筆なんてのがあるのも象徴的。
受験シーズンになる1~2月の天神様は、もしや、初詣の時より大賑わいの様相なのは、そのご利益のひとつが「学業成就」である以上の理由があります。

天神様は、この現代にこそ鳥居の向こうに祀られたカミサマではありますが、菅原道真という名の平安時代に実在した学者。
詩人でもあり、また優秀な政治家でもありました。

生まれは、学者の家系ですが中流の貴族。それが、道真公はそのすごすぎる優秀さゆえに、宇多天皇の信任を受け要職を歴任、右大臣へと出世を遂げます。
当時は、家の格に応じた職に付くのが常識の時代ですから、それは異例中の異例だったと言われます。

天神さまが「学問の神様」として親しまれるのは、まずは、その秀でた学問の能力によるもの。しかし、さらに加えて、それを政治という現実の場でも役立てたという聡明さがあって、それも大きなよりどころなのではないかと思います。

しかし、ここまで人気を博すカミサマになられたのは江戸時代のことで、当時、読み書きレベルを含め学問が庶民に広がるにつれて、天神様は、学問の神さまとして確固たる人気を獲得した模様です。

江戸の年中行事が記録された「東都歳時記」(東洋文庫)には、1月25日の初天神には「寺子屋の師が生徒を率いて参拝を行った」と書かれていますし、「日本年中行事辞典」(角川書店)にも、「昔は寺子屋に天神様の尊像を掛けてあるのが常であった」との記述もみられます。

江戸の庶民の学問は読み書き算盤。
もちろん、まだ身分で生き方が決められていた時代ですが、何かを学ぶことが、同じ仕事についてもその幅を広げ、しいては自分の人生を豊かにしてゆくと考えられた。
だから、学問の能力磨くのみならず、それをきちんと世の中のために役立てた天神様は、尊敬された。
その後、現代にいたるまで、学問成就の象徴として私達の生活の中に天神様が居続けているのは、たぶん、そうゆうことであるように思います。

天神様の梅伝説

それでは、天神様の境内には梅が咲き誇ったり、そもそも神社のしるし・神紋が梅なのはなんででしょうか?
まあ、コレは、有名なお話なのでさらっとゆこうと思います。

東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな

天神さま、つまり菅原道真公は、その優秀すぎる才能をねたまれたのか、時の権力者のひとり藤原氏の陰謀にはまり、京から大宰府に左遷された。
…というのも、もちろん有名。
先の歌は、その出立の日に、自宅の梅の木を眺めながら詠んだものなのだそう。

春になって、東風=こちが吹くようになったら、主の私がいなくても忘れず、匂いゆかしくい花を咲かせよ。

道真公の京の屋敷は「紅梅殿」とも呼ばれるほど梅が見事に咲き誇っていたそうです。
それほど梅を愛した道真を、梅の木の精も慕わしく感じた。
そして、道真が亡くなると九州まで飛んでゆき、道真の墓の側に根を下ろしたのだとか。
これが、いわゆる「飛梅伝説」。

この伝説にちなんで、天神様が祀られる場所には必ず梅の木があり、神紋はカワイイ梅のカタチになったというわけです。

菅原道真公が天神様になったホントの理由

さて、「飛梅伝説」は美しい言い伝えですが、菅原道真公を巡る歴史はもっとおどろおどろしいものだったようです。

大宰府に左遷された二年後の903年、失意のうちに亡った道真公は、そのままその地に葬られました。

その後、不思議と京都では異変が相次ぎます。

道真を失脚に陥れたとされる藤原時平が909年に39歳で病死。
天皇家に生まれた、彼の甥や孫など、血縁者も次々に病死し、その後十数年の間に藤原氏一族の変死が相次いだとされます。

加えて、落雷などの天災も頻発。
とうとう、930年には、天皇の御殿である清涼殿に朝廷の要人が集まり朝議の最中、突如落雷を受け多くの死傷者が出ます。

これは「清涼殿落雷事件」として後に伝わり、天災ではなく事件扱い
つまりこれら一連のことは、自分達がないがしろにした道真公の祟りだと、朝廷は本気で恐れるようになったのです。

なんかずいぶんと後ろめたいあれこれが、菅原道真大宰府左遷の背後に横たわっていたんだろうねぇ…。
そんなことが感じられるエピソードです。

恐れた時の為政者たちは、道真の怨霊(と思ったもの)と雷神を結びつけます。
そして、その祟りを鎮めるために、かつてより火雷天神を祀っていた京都・北野の地に、道真とその妻、息子を祭神とする北野天満宮を建立。
さらに、987年、道真を左遷した醍醐天皇より六代先の一条天皇より神号の「天満(そらみつ)大自在天神」の称が贈られ、菅原道真公は正式に神さまになりました。

これが、実在した人間であった菅原道真公が神話の世界の人になった理由。

妬みそねみの権力闘争と怨念と祟り…と、なんとまあおどろおどろしい。

それでも、罪が許されたとなったら、北野天満宮を創建して祀り、その生涯が「北野天神縁起絵巻」に描かれ、最古の承久本以外にも多く制作された。
これは、道真を慕い、尊敬しその左遷と死を心底悼んだひとが非常に多く存在した証拠でもあるように思います。

しかし、庶民の間では、その後もしばらく災害が起こるたびに道真の祟りと恐れられ、さらに農耕生活とかかわり深い天神・雷神信仰と結びつきながら「天神信仰」は全国に広まってゆくことになります。

だから、農村地帯に真ん中に、小さな拝殿があり、のぞいてみると学問のカミサマ天神様がこんなところに?!
なんてコトもあるのですね。

さて、神忌祭を滞りなく終えると、もうほんとの春。
「亀戸のあたりも春本番だねぇ」といつだったか亀戸にお住まいの方がおっしゃっていました。

最後に、五色天神のお話を。

今日の写真の天神様は、実は、黒・青・白・赤・緑の五ついらして、それぞれ別の意味を持つ存在とされます。

五つの色は、儒教の教えである「五常の礼節」により、人が守らなければならない五つのルール「仁義礼智信(じんぎれいちしん)」を、それぞれあらわしている。

写真の「黒」装束の天神様は、「仁」=思いやりの心 憐れむ心をあらわすそうで、他の色は以下の意味。
赤は、「智」=正邪を正しく判断すること 善いこと悪いことを論じる心。
青は、「義」=世のためになる人としての道。不善を恥じ憎む心。
白は、「礼」=礼儀正しいこと、謙虚、感謝の心 へりくだり人に譲る心。
緑は、「信」=嘘をつかないこと 信念・信条。

実は、この五色天神が、暮らしのなかで愛玩されていたのは江戸中期頃までだそうで、それから以降はなぜだかしばらく世間からその姿を消していました。
かすかな記憶を持つ人々により、「幻の天神」と伝えられ、人々の心の中にのみ生きてきたこの天神様方が、ある日、幕末に建てられた商家の改築の折に発見されます。
だから、実はこの出雲五色天神が復元されたのは、ぐっと最近の1970年。
発見されたものをもとにの五色に彩り古式にのっとって復元され今に至り、もちろん今も、島根県まで出向いていけば五色天神様方にお会いし購入することも可能なようです。

ちなみに、写真のモノは、その復刻を原型にして作られた、石見銀山に本店を持つ衣料・雑貨ブランド「群言堂」オリジナルバージョン。
本当は、5人いっしょにお越しいただくのが筋か…と迷いましたが、黒・青・白・赤・緑と色合いも美しく飾られた中から、かなり迷ってひとつだけ、「思いやり」の黒を選ばせていただいたものです。

◆今日は、2014年3月25日/旧暦2月25日/如月乙未の日