明日は七夕。晴れるかな?/旧6/10・戊寅

天の川の東の岸には天帝の娘、織姫が住んでいました。

織姫は、機織が天職でいつも鮮やかな天の衣を織って過ごしていました。
ある日、天帝はわが娘が独り身なのを可愛そうに思って天の川の西に住む彦星との結婚を許します。

しかし、天の川の西、彦星の元に嫁いだ織姫は幸福のあまりか、ぱったり機織をしなくなった。
天帝は働かない織姫を怒り、彦星から無理やり引き離し、天の川の東へ帰らせてしまいます。

深く悲しむ、織姫。
気の毒に思った天帝は、年に1回、7月7日の夜だけ川を渡って彦星と逢うことを許したのです。

その7月7日の七夕の日をまじかに控えた6月下旬あたりから、都会では、花屋の店先には「七夕の笹入荷しました」の張り紙が目立ちます。

田舎育ちの私には、ちょっと軽い驚き。
だって、福島の母の家の裏には、竹藪…笹竹は買うモノではなく採ってくるものなのです。

明日は七夕となれば、笹の葉飾りはもうあちこちに

たとえば、町の集会所みたいな場所には、必ず。

20100702七夕飾り

風に煽られ、天に向かって泳ぐ(?)さまが風流を醸しております。

五節句のひとつである「七夕」は、現代ならば、短冊に願い事を書いて葉竹に飾り、梅雨の合間に晴れることを祈って「今年は織姫と彦星が出会えるといいねぇ」などと空を見上げたりする。
そんな過ごし方が一般的です。

あっ、町の由来あるお屋敷の門にも笹飾り!

200707七夕

ちょっと浅草方面へ向かう途中。
合羽橋道具街とクロスするかっぱ橋本通りも、下町の七夕祭りに向かって飾り付け完了!

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ついでですので、関東エリアで、一押しの七夕飾りを。

20100621八幡様の七夕飾り

鎌倉八幡宮では、6月下旬からこんな優雅な飾り付けがなされているはず(というのも、この写真は、偶然訪ねた2年前のモノなんで…)。

境内も飾りであふれております…はずです。

20100621八幡様の七夕飾り2

七夕祭りの由来は、意外に複雑だったりします。

せっかくの七夕前夜。
明日に備えて、七夕の由来などをたどってみましょう。

実は、それ、日本古来の信仰と中国から伝来風習が絡み合い、「笹の葉さーらさら♪♪」などと暢気に歌ってもいられない、その成立の背景は非常に複雑でもあります。

1.先の織姫彦星の伝説が日本へ伝えられたのは奈良時代あたり

“好きあっていながらも1年に一度しか会えない話”がうけたのか、すでに『万葉集』あたりから、この二つの星をモチーフにした歌が数多く存在します。

それと一緒に、織姫の機織にあやかり、女性が針仕事の上達を願う「乞巧奠」(きっこうでん)という行事も伝来。

大陸からわたってきた文化は、当時すべてがニューウエィブですから、平安時代のあたりの宮中では、七夕といえば、晴天の星空で二つの星が出会えるのを眺め、また、織姫に裁縫の上達を願う「乞巧奠」が主な行事だったようです。

2.日本には、それよりずっと古来より「棚機津女(たなばたつめ)信仰」というのがあった。

「棚機津女(たなばたつめ)信仰」の主たる行事は、七月七日の夜に遠方からやってくるカミサマを迎えるため、聖なる乙女が、水辺の棚に設けた機屋に篭って機を織る…というコト。
やってきたカミサマはその乙女に降臨し、翌朝帰られるときは、カミサマが穢れをすべて持ち去ってくださる…そんな伝説が信じられ、実際に神事として行われていました。

そして、「七」日の「夕」辺に、「棚」の上で「機」を織るから、そのまま「たなばた」に「七夕」の字を当てはめました。

3.7月7日は、お盆に入る日でもあった

人びとは、7日の夕方には、精霊棚をしつらえ、そこに供養幡(はた)を安置するのが決まりで、「七」日の「夕」方に「棚」に供養「幡」を飾るので、やっぱり「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになった説もあります。

そもそも日本における七夕は、このように、「夏の厄災を祓う禊の行事」とか「お盆を迎える風習」(お盆も日本固有の祖霊信仰と仏教とが融合して今のカタチになったのです。)などの意味合いが強かった。

そこに、中国から渡ってきた、1.の風習が融合し、時代とともに不要なものはそぎ落とされ、カタチを変えて今のような行事になったようです。

それでも「乞巧奠」と織姫&彦星の「二星会合」の行事は、長く宮中行事として続きます。

七夕の風習が、今のように庶民に広がったのは、江戸時代になってから。

ちなみに、短冊に願いごとを書いて笹に飾るというのは、江戸時代の頃に生まれた風習らしく、当時は、芸事の上達にのみご利益があるとされたそうです。
おそらく、裁縫の上達を願った「乞巧奠」の行事が、庶民に広がってゆくにつれ、裁縫→芸事とやや拡大解釈されていったのでしょうね。

飾る、笹のほうは、「夏越の大祓の茅の輪」の両脇に飾られる笹竹(6月30日の記事を参照ください。)に因んで、やはり江戸時代から始まったものらしく、七夕の風習のある中国やベトナムなどにも見られない、日本固有の飾り付けだそうです。

江戸時代の七夕の行事は、なんといっても江戸市中が盛んだった

江戸の風俗史家・喜田川守貞(きたがわもりさだ)の著作『守貞謾稿』(もりさだまんこう・現在は岩波文庫より『近世風俗志(守貞謾稿)〈4〉』として発刊)を紐解いてみましょう。

大阪では「手習いを習う児童のみ五色の短冊・色紙等に詩歌を書して青笹に数々これを附け」、そして寺小屋に集まって終日遊ぶとやや地味な展開の行事であるのに対し、「江戸にては、児ある家もなき屋も、貧富大小の差別なく、毎戸必ず青竹に短冊・色紙を付して高く屋上に建つる」とあって、上方と江戸の七夕熱狂の差は相当なものらしかったようです。

そして、「(江戸)市中の婦女、多く大名に奉公せし者どもにて、とかく大名奥の真似をなし、女にかかる式は盛んなるなり。ゆえに男の式は行われず形ばかり」と著者がややぼやいているところが面白いです。

こう描かれると、当時、大名家に奉公にあがるのは、今で言う一部上場企業のOLぐらいの感覚に似てますね。
教養もお金も持っていた婦女子層がセレブのライフスタイルを真似て流行を作ったと考えれば、そうゆうところは、今も昔もあまり変わりがない、恐るべし女子パワーとでもいいましょうか。

その江戸市中の七夕の様子は、歌川広重の名所江戸百景『市中繁栄七夕祭』(→ウキペディアでどうぞ)で垣間見ることが可能です。

もちろん絵画的なデフォルメはあるでしょうが、中央奥に富士山を配し、そこまでずっと続くような甍の波の上に所狭しと七夕飾りの笹の葉が林立する様子は、夢のように美しい光景。
じっと眺めていると、そよそよそよそよ…と、風に震える笹の音が涼しげに聞こえてくるかのようです。

当時は旧暦時代ですから、7月7日は、必ず上弦の月。
そして梅雨もすっかり明けた頃です。

昼過ぎに出た半月が夜10時すぎにはすっかりと沈み、からっと晴れた空には星だけが瞬いています。
天の川もさぞかし見やすかったことでしょう。

そして、その星々の明かりの下でそよそよそよぐ七夕飾りの群れ。
想像するだに、なんと風情のある七夕の夜であることでしょうか。

現代の7月7日は、まだまだ梅雨の真っ最中。
ここ数年を思い返せば雨や曇りの日が多く、今年は彦星と織姫が逢えるのかどうか、ただ、やきもきしながら明日の夜を待つことになりそうです。

◆今日は、2014年7月6日/旧暦6月10日/水無月戊寅の日