JR神田駅の東に広がる「鍛冶町」の地名は、昔この界隈が鍛冶屋の町であったあかし。
もう鍛冶屋さんはありませんが、鍛冶町1丁目と2丁目の間に、今も「神田金町通り」というそれ風の名の道が走り、その通りの紺屋町の交差点から岩本一丁目の交差点までの辺りには、今でも点々とですが、金物を商売にした店が軒を並べる。
しかし、往時の面影はそれだけの、古いビルが並ぶ静かな街です。
そこに忽然と現れた…あれはなに?
11月7・8日は、金物商人たちが守ってきた「ふいご祭」の日
だから、この両日、鍛冶町界隈には、大きな幟が飾られ、街の様子がちょっとだけ変わります。
盛大だった江戸時代の「ふいご祭り」
かつて、「ふいご祭り」には、ふいごを用いて火を使う職工人と金属性のものを作り売ることを商売にするすべての人は、仕事を休んでこの日を祝ったんだそうです。
特に、江戸時代の鍛冶町界隈のふいご祭は盛大だった。
鍛冶職の家々では2階から蜜柑やお餅をまいて、子どもたちはそれを毎年楽しみに拾ったんだそうです。
こんな風にね。(写真をクリックすると大きくなります)
これは、明治・大正の浮世絵師・菊池貴一郎(四代目歌川広重)によってまとめられた『絵本江戸風俗往来』 (東洋文庫 (50))の挿絵。
本書には、普段ふいごを扱っている家の、ふいご祭りの日の様子も記録されています。
<当日は家業を休み、前々より家内の繕い、畳をしきかえ掃除奇麗に客を招く。
稲荷神の宝前供物うず高く、燈明かがやき、近隣へは蜜柑、膳部の配り物ていねいになす。
この日未明に蜜柑まきのも催しがあるまま、この家のある近辺は、児童等早天に起きて蜜柑を拾いに趣く>
と、つまり、師走に先立って家の大掃除までするほどの一大イベントだった模様。
そして、信仰の対象はお稲荷さん。
その神前も丁寧に清められただろうし、供物を捧げ燈明で飾られた。
日々火事の恐怖にさらされる江戸人にとって、お稲荷さんは、まず第一に火防のカミサマ。
なので、火に由来ある、ふいご祭もお稲荷さんのお祭りだということですね。
そして、ご近所にもさまざま配り物をし、早朝から子供向けに蜜柑まきをする…と、コミュニティを巻き込んでの大きな催しでもあったようです。
撒いて振舞うほど沢山の蜜柑。
その調達に貢献したのは若き紀伊国屋門左衛門
今も昔も、蜜柑は江戸東京よりずっと西の産物。
しかし、今ほど流通網は発達してない江戸時代です。
蜜柑の産地紀州が大豊作で上方の蜜柑が暴落するような年も、海が荒れれば、江戸市中の蜜柑は、あっという間に不足します。
そこで、江戸のふいご祭のニーズに目をつけたのが、若き紀伊国屋文左衛門。
後に豪商となった彼ですが、そのときは、まだそんなに財のある身でもなく、安く調達したボロ船で荒海を越え、決死の覚悟で蜜柑を運んだんだそうです。
蜜柑を無事江戸にとどけ、それが、紀伊国屋文左衛門に財と江戸人の人気と信頼をもたらした。
この現代になっても、蜜柑と紀伊国屋門左衛門と聞けば、なんとなくピンときてしまうもの。
たどってゆけば、江戸の「ふいご祭」と、その盛大さにつながります。
にぎやかだったふいご祭も今は昔。
東京の町から鍛冶職もなくなり鍛冶町は名前だけを残すビル街の町。
それでも、そのちょっと東の神田岩本町では、金山神社を金物商の職神として親しみ、いまもふいご祭が守られつづけております。
昨日、今日とこの界隈を歩けば、まず目に付くのは、白地に赤い「ふいご祭」の幟。
静かな街ですから、土地勘が無くてもすぐにそれとわかるはずです。
幟を見たら、その通りの北側に広がる町並みに分け入ってゆきましょう。
静かな通りの先を左右気をつけながら歩けば、今度は通りを飾る小さめの幟。
そして、道の先には、提灯が飾られ、赤々とかがり火が焚かれているのが見えるはず、それが、このふいご祭が執り行われる金山神社です。
かがり火は、それを絶やさず、万が一の延焼を避けるために世話人風の方に守られています。
今は、特別なイベントもなく、金物を扱う職人、会社関係の方々によって、奥の社殿で厳かに神事が執り行われておりました。
都会の真ん中では禁忌だろう火を焚く祭も、火のカミサマを祀る神社ゆえの特別な計らい。
その珍しさも手伝ってなのか、辺りは幻想的な雰囲気をかもし、往時の勢いを知りたくもなる、ちょっと嬉しい夕暮れ時の出会いです。
ふいご祭りは、毎年、11月7日・8日、かがり火はあたりが暗くなる5時半ごろからその火が点されるんだそうです。
◆今日は、2014年11月8日/旧暦 閏9月16日/長月癸未の日
◆日の出 6時09分 日の入16時40分/16番目の「十六夜(いざよい)」月の出17時52分 入 7時06分