正式名称「国立科学博物館附属 自然教育園」。
勝手通称「都会の自然森」へ。
といっても訪ねたのは、梅雨明け直前のこと。
ちょうど、「そーいや小中学校は夏休みじゃんねぇ~(*’▽’)」
と気が付いて、そんなら私もそれらしいことと、ちょっとだけ遥々JR目黒駅経由白金へ。
ここは、上野の国立科学博物館の付属施設。
科博も超面白い場所だけど、ここの面白さはまた別のもの。
だってさ、山手線の内側に、自然のままの森がある。
奥へ奥へと進めば、より深さを増す不思議。
倒れた樹木がそのままの池。
よくぞここまで自然に近い風景、残されているものだなとしばしカンドー。
カンドーしながらしばし辺りをうろつけば、もしや私、延々電車に乗っていずれかの山懐にやって来てる?
なんて錯覚にも陥ります。
平安時代は水田地帯、室町時代になって豪族が住み…。
周囲を目黒川と渋谷川に囲まれた低湿地、そこからしばし広い台地が続く原野だった…という地形。
平安時代はここに水田や染料となる植物の栽培がされていたと、自然教育園のサイトにはありますが、今はその面影はあまりなく。
面白いなと思うのは、あちらこちらになされた盛り土による土手風のもの。
「土塁」と表示がなされているのはさすが博物館の施設ですね。
これは、室町時代にここにチカラある豪族が館を構えていた名残なんだとか。
この森は、おびただしい数の植物や虫や鳥などの動物たちを内懐に養いつつも、そんな歴史も今につなぐ…ってとこが面白い。
この地が、記録に残され始めたのは…。
もっと時代が下って、安土桃山時代のあたり。
まずはこの地は、太田道灌のひ孫の新六郎が治め
⇒江戸時代は増上寺が治め⇒高松藩主松平讃岐守頼重(徳川光圀の兄)の下屋敷が立つ場所に。
⇒明治時代は、海軍・陸軍省の管理となって火薬庫がおかれ
⇒大正時代以降は、白金御料地とされた。その際、明治神宮の森へと、ここから大規模な木々の移植もされたらしい。
そして、戦後、「天然記念物及び史跡」に指定されることを経て、「国立科学博物館附属自然教育園」となったのだそう。
ふーっ、なんと長い流転の歴史。
こうして歴史を紐解けば、もしかしたら、都内各所にある庭園のように管理された庭の道もあっただろうし、下手すりゃ住宅街やマンションの敷地という顛末だってあったかもねと思う。
ああ、よくぞ、自然森のたたずまいで今まで残ってくださいましたと手を併せたい(*’▽’)。
そうと知れば、入口付近に掲げられてる「都市に残された自然をいつまでも大切に」のコトバも重くココロに響くというものです。
いやあ、面白いっ!梅雨が明け、盛夏になったら再訪したく。
…と思いつつ、その日は、この「自然教育園」を後にしたものです。
が、即座に梅雨明け、いきなり来た殺人的な酷暑。
もはや、無事に行って帰る自信はありません😓。
ってことで、こんな夏休みの真ん中に(学校の…ね。)、自由研究気取って、自然教育園の紹介などをしてみた次第。
さて、ではでは最後に、梅雨明け直前、7月下旬に咲いてた花々などを。
まずは「山ゆり」。
今年は、いろんな場所でこの花に逢いましたが、ここの山ゆりがいちばん自由に咲いてたと思う。
もちろん「藪萱草(やぶかんぞう)」も同様。
こんな珍しい「姥(うば)ゆり」にも遭遇。
いや、遭遇というより、もういくらでも会い放題というぐらい、この種は、ここかしこに咲いていました。
咲きまくっているといえば…。
「藪茗荷(やぶみょうが)」も「姥ゆり」といい勝負です。
他にも、名も知らぬ植物多数。
もちろん「教育園」ですので、植物の札は各所に抜かりなく表示されてはいるのですが、その場所は手が入らない自然の叢。
実はどれがどの名札かわかりかねる状態であったのでした。(←そこも魅力っ!)
さあて、私のカラダが暑さになれるか、暑さがしばし平常化するか。
そしたら、さっそく再訪しようかと思っては…います。
その時は、植物図鑑必携ですね。
◆今日は、2019年8月7日/旧暦7月7日/文月丙子の日/月齢6.0日
◆日の出4時53分 日の入18時40分/月の出11時30分 月の入22時51分