父親のまなざしを通して宮沢賢治を描いた『銀河鉄道の父』。なんかものすごくダメダメな賢治像がかえって慕わしく思えたりして(*’▽’)

門井慶喜作『銀河鉄道の父』を読了。

作家・宮沢賢治の誕生から早すぎる死を父のまなざしを通して描いた
フィクションではあるけれど、緻密な取材を重ねなければ描かれなかったリアリティは、宮沢賢治伝といってもいいんじゃないか?

銀河鉄道の父

とにかく、興味津々となりながらやや前のめりに読み進めて、ややお堅い聖人のようなイメージを纏った賢治が生身の少年&青年へと氷解していった。

個人的には、思春期に、ちょっとだけ避けてた記憶の賢治ワールド。

宮沢賢治の描く舞台は、岩手県の花巻界隈。
私が育った宮城県とはそう離れていない馴染みの光景が、その物語にもくり広がって、本当ならば、図書館で読んではまって…となるはずがならなかった。

満足に読了したのは『風の又三郎』だけで、そのあとに続かない。
思い返せば、そこに勝手に死の匂いを嗅いでいたのかもな…と、本書を読んでふと思う。

宮沢賢治は、幼少期に一度。
そして思春期にも再度、重い病で入院し、そのたびに父・正次郎が自分の身をとして付き添い看病した。

死に魅入られたように暮らす、早すぎる晩年までも「終夜(よすがら)ストーブの薪をついで」そばで看病していたのは父親である。
…その「父が父親でありすぎる」なエピソードは、そここでこの物語を彩り、また物語に深みを形づくってもいた。

そして、私には、それらの話が、なんだか、賢治が天から好かれ隙あらば連れてゆこうとされてるチカラに父が抗い戦う様子に思えた

宮沢賢治の物語に子どもゴコロに「死」の匂いを感じ、怖かったから読みたくなかった。
…その理由はこうゆうことなんじゃあないだろか。

その後、オトナになって、宮沢賢治を紐解いてみて、しかし、その読み方は、素敵なアイテム探し…みたいな、ちょっと作家に失礼な読み方になってしまったのもその流れ。

だから、好きだった作家の誕生日に、その一冊を読んでお祝い…の候補に、実は宮沢賢治ははいっていない。

生活力もなく、ひ弱な賢治。

そして、聖人のようなイメージ像は、最晩年に形づくられたものでしかない
本書の三分の二ぐらいは、思慮深く、立派な父と、それを越えられないひ弱な息子の構図である。

しかし、それを知って、ホッとする読者(←私です)。
そうだよねぇ、賢治だって人間だもの。

質屋を営む裕福な宮沢家の長男として生まれ、無心をすれば、惜しみない金銭的援助のある暮らし。
好奇心とともに、自尊心も強すぎる、少年・青年期。

家業の質屋の仕事はまったくも向かず、客になめられる始末。

父・正次郎が「卒業したら、何をしたい」と問えば、「製飴(せいい)工場を経営したい」とか、その後も「人造宝石」を造って生業としたいとか。
うーん、大丈夫なんだろうか?このヒトは的な話が続き。

しかし、製飴=カラフルなハードドロップだったり、人造宝石=キラキラ輝く石だろうし…そこに現れる宮沢賢治の原石みたいなものが慕わしい。

そうして、父と子の葛藤とぶつかりみたいなものが続いた果てに…。

先に逝く妹トシのために童話を描き。
農学校で教師をしながら、生徒たちに自作の童話を読み聞かせ、劇を上演もする。
著作のために学校を退いて後も、文盲の農民たちに肥料や土つくりのことなどを伝え…。

…ああ。知ってる宮沢賢治は、死のホンの10年の生きざまのことだったんだなぁ…と。

そして、賢治の死以後。

この物語は、父・正次郎が主人公だから、その後ももちろん。
最終章こそが表題「銀河鉄道の父」で、残った3人の息子、娘と妻と、孫たちとの日々が少しだけ描かれて、読者にとっては救いと希望の読後感を与える物語。

正次郎が幼い孫たちに朗読する「雨二モマケズ」を一緒に聞いて、飄々とした賢治を想像してちょっとおどろく。
そして…。

「『銀河鉄道の夜』の最後は、未完成だからわからねぇ」
「お前たちが(つづきを)書けばいい」
「私はほら、お前たちより先に逝く。そうしたら伯父さんに会えるから、じかに聞くよ」

の下りで、ほろり暖かい涙が込み上げてきたりするのである。

ああ、後世のひとびとの評価やイメージにちょっとうっかり騙されてきたなぁ。
さあて、この一冊を閉じたら、書棚にある宮沢賢治のどれかを紐解いてみようか?

こんな本の読み方もあったんだなぁ…とちょっと感謝しつつ思ったりする。

↓長く積読してたらとっくに文庫本も出てました。
『銀河鉄道の父』 門井 慶喜 (講談社文庫)