どうも春は花の話が続きがち、いいかげんブログのネタも違う話に…と思いつつ、ネタ探しに商店街の八百屋とか魚屋とか。
つまり、食べもの方面に話を振ろうって寸法です(笑)。
で…。
この時期、ハマグリ、浅利にシジミと、貝類が安いかも!
ああ、春はそんな時期でもあるんだなぁ。
⇒そういや、潮干狩りってもう始ってるの?
⇒「汐干(しおひ)は、3月より4月に至る。其内3月3日を節(ほどよし)とす。」という一文を思い出す。出所はこのブログの参考書でもある愛読書『東都歳時記』か『東京年中行事』のどちらかであることに違いなく。
急いで帰って、潮干狩りの絵を探す。
あったあった!
『東都歳時記 1』 (東洋文庫)
の三月三日の項に挿入された挿絵。
江戸の昔。
東京湾は、延々浅瀬の浜が、気持ちいいぐらいに延々続き、江戸前は潮干狩りの名所であった証拠です。
うーん。
しかし、これだといまいちはっきりしないなぁ…。
で、拡大コピーして、ちょっと着色してみました。
時期は、今ごろ、旧暦ならば2月半ばから下旬ぐらい(といっても、昨年9月に閏月が入った都合で、今年の今日は、まだ旧暦1月末ですが…。)の江戸の海辺の光景。
かなり雑な着色で恐縮ですが、春の江戸前の光景に、ちょっとリアリティが出てきた感じ。
…しない?
ちなみにこの挿絵の本文はこんな風です。
<芝浦、高輪、品川沖、佃島沖、深川州崎、中川の沖、早旦より船に乗じてはるかの沖にいたる。卯の刻過ぎより引始て、午の半刻には海底陸地と変ず。ここにおりたちて蠣蛤を拾い、砂中のひらめをふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり。>(P219)
手前の鳥居(たぶん富岡八幡宮)のあるあたりが深川。
そのまま右側に視線をずらしたところにある橋が「永代橋」で、その下を流れているのはもちろん隅田川です。
そこから芝浦方面(左上に小さく芝浦と書かれているあたりが、今の江東区芝浦で、飛行場やらモノレールやらが走っているところですね)まで一面広大な干潟になっています(グレーに着色したところ)。
っーことは、隅田川を境に今の江東区や中央区の海側は、ほぼ浜だったってことですね~!
想像するに雄大過ぎだわ。
人影や船影が点々と描かれているのにご注目!
その雄大過ぎる浜に点々と散らばるモノは、潮干狩りに繰り出したヒトの影...と、汐が引いて砂地に止まった舟のようです。
<早旦より船に乗じてはるかの沖にいたる>とあるから、日が出る前から船に乗っていったん沖の方へ出るのが当時の流儀だったみたい。
<卯の刻>=日の出の時刻より汐が引き始めて、<午の半刻には海底陸地と変ず>だから、昼頃には、海底が姿を現す…と。
現代でいう、江東区のほぼ全部が、浅瀬の浜になっちゃう..の図。
ちょっと規模が大きすぎて想像できてないかも。
少なくとも、海が満ちているうちに船で沖に出て待ってないと、引き潮した場所を徒歩でゆくのは無理在りまくりなのは理解しました(笑)。
で、<蠣蛤を拾い、砂中のひらめをふみ、引き残りたる浅汐に小魚を得て宴を催せり>。
つまり、そこに、はまぐりやら、ひらめやらの、春の海の幸がわらわらと顔を出しすってわけですかぁ。
それをせっせと捕まえてそこで調理して食す…と。
…ああ、ちまちま魚やで貝なんて買う気がなくなるなぁ。
そういえば、貝はどうした?
この気分が想像つきましたので、もちろん買ってきませんでした(笑)。
ちなみに、潮干狩りは、<其内3月3日を節(ほどよし)>とあるのは、時期的なのに加えて、当時の民間信仰によるところも大きいみたい。
桃の節句は、今のようにひな人形を飾ったりと言う行事以外に、海や山、野原へ出かけ、自然の中に宿る精霊達と交わるという意味も持っていた。
古人は、その方々とともに、春の恵みをともに食して、1年の無事を祈願したのだそうです。
ふーむ。単なる行楽を越えた意味合いもあったのねぇ。
浜をなくした東京湾。
野原も山もない都会の生活。
目に見えないけどそこにいそうな存在を感じるコトなく、現代の春は来て過ぎてゆく。
木の芽時は、ちょっと気分が不安定にもなるというけど、それってこうゆうコトなのかも…と、この絵一枚眺めて思ってしまった。
貝をいただく前にでも、ちょっと浜の方へ出かけてみようかな…と考える一日。
◆今日は、2015年3月15日/旧暦1月25日/睦月庚寅の日
◆日の出 5時53分 日の入17時48分/月の出 1時33分 月の入12時05分