洒落たお店もあちこちにあり、ほどよく坂の多い白金の街。
そぞろ歩けば、やや汗ばむ季節になると、街にはこんな意匠のポスターが登場!
5月4日・5日は、白金の五月祭・清正公大祭、通称・清正公様(せいしょこさん)のお祭りです。
清正公覚林寺は、大通りに面しながらも普段は閑静な場所。
ですが、祭期の2日間はそれが嘘のように境内外には露店がひしめき、大通りをまたいだ向こうの通りまでずっと続く賑わいぶり。
祭りの賑わいには近所の商店街も一役買って、清正公様(せいしょこさん)は、界隈でも人気の祭りであることが見て取れます。
山門には、提灯が飾られ…。
清正公様の拝殿横で、気持ちよく泳ぐ鯉は…。
江戸から続く「開運の鯉」です。
加籐清正公は、安土桃山時代、秀吉の家臣として活躍した武将。
武運に秀で、槍の名手であったとか、朝鮮出兵中には、虎を退治したとか…と勇猛な伝承で語られる戦国武将で、こんなお姿の方らしい。
見えます?
器の模様に、槍を持った武将が描かれています。
清正公は、それ以外にも、土木知識・技術にも秀でた人で、氾濫する川の治水や農地を確保するための干拓、あるいは築城などに力量を発揮し、各方面から尊敬を集めた人でもあったとか。
現代で云えば、実質的な理系の知識を持ちながら、武道に秀でた文武両道のヒトといったところでしょうか。
現代になっても密かに人気を集める武将であることがうなずけるような気がします。
秀吉の死後は、家康の家臣となって、肥後国を与えられ熊本藩主となります。
ちなみに、「清正公大祭」が執り行われる白金の覚林寺は、もとは熊本藩の中屋敷のあった場所にあり、朝鮮出兵の際に、清正が朝鮮国の王子を二人連れ帰り養育したうちの一人、日延上人が加藤清正を祀るために開いた寺。
清正公は、朝鮮出兵の折に、法華経の題目を大書きした旗を立てて奮戦したという逸話があるほど、非常に熱心な法華経信者だったため、この白金の覚林寺に限らず、多くの日蓮宗の寺院で清正公を祀る例は多いそうです。
しかし、その生誕の日と命日が等しく6月24日ということもあって、普通、清正公祠の大祭日は6月下旬、覚林寺のように端午の節句に併せて開催するの珍しいらしい。
とはいっても、武運に優れた加籐清正と、勇壮な武者人形を飾りのぼりを上げる端午の節句はイメージにも相通じるものがあり、江戸東京の「清正公様」は、やはり今ごろが似つかわしい祭りと思えます。
ということで、お参りを済ませた後は、祭期の5月4日・5日にしか授与されない「開運出世鯉」をいただいて。
今は、焼きそばとかお好み焼き、たこ焼きなんかの、スタンダードなお祭り露店がつらなりますが、かつての門前市は鯉のぼり屋と菖蒲屋がメイン。
なので、門前では、今も菖蒲(蓬つき!)が売られております。
それもいただき。
これは、細かく切って、晒しに包んで、明日の菖蒲湯用に仕込んでおく。
ちなみに、現在寺社が授与する写真の「開運出世鯉」のルーツも、かつて門前市で売られた内飾り用の小型の鯉のぼりだったそうです。
小型といっても「大きいものは長さ一間もあり、真鯉、緋鯉が2匹ずつ竿に吊るされていた。竿の上には竹の矢車、松のくす玉、吹流し」(「東京の祭り」小池龍三 木耳社)といった、かつてはなかなかに凝ったつくりだったよう。
これは東京を代表する貴重な郷土玩具であったのは間違いないところですが、多くの縁起物や郷土玩具と同じく、作り手が希少となっていなくなり、やがて廃れてしまいます。
寺社による「開運出世鯉」は、矢車は紙製、鯉も三色刷りの素朴な感じではありますが、かつての美しい郷土玩具の面影を纏います。
そこに、市というビジネスとして成り立たなくなり消えたものも、残すべきものなら、今度は信仰のエリアで守ってゆこう。
そうゆう、古い時代からある寺社の仕事が、新しい時代と関わってゆこうとする動きの一端が垣間見えるような気がする…といったらうがちすぎでしょうか?
◆今日は、2014年5月4日/旧暦4月6日/卯月乙亥の日/みどりの日