7月最終土曜日の今日は、隅田川の花火大会です。/旧6/30・戊戌

た~まや~!
隅田川花火
かーぎや~!
2008花火2

今日は、隅田川の花火大会。

なんと!
我が家の窓からも花火が見えるものですから、今日は万難を廃して、何があっても午後7時開始の時間は家にいます。

といっても、我が家からの花火はキャンディサイズ…なんですけどね。

そして、この窓の真ん前に背高なマンションが建ち、実は、このキャンディ花火も今年で見納め。
もう絶対に見逃すことはできません。

いつもよりずっともっと丁寧に、見納めようかと、もう数日前から、あれこれ予習に余念もない私であります。

まずは、隅田川花火大会のルーツをおさらいしましょう。

享保18(1733)年八代将軍吉宗の治世のときにおこなわれた隅田川の水神祭と川施餓鬼供養が、隅田川花火の始まりです。

この前年、日本は蝗の大発生により田畑の作物のほとんどがやられ全国的な大飢饉にみまわれました。
加えて、江戸市中ではコレラの大流行。

飢えとコレラで、尋常ならざる数の死者がでた、踏んだりけったりの1年でした。

その世相を憂い、幕府は、死者を慰霊し悪病退散を大川のカミサマに祈願する神事を執り行います。
そして同日、幕府の許可を得た両国橋畔の料理屋たち主催で、川で亡くなった人を弔う施餓鬼供養をも行われ、花火はそのとき慰霊のひとつとして打ち上げられて、それが「両国の川開き」として恒例となったものです。

隅田川に上がる花火は、自然のカミサマを畏敬し、死者を慈しむという深く大切な意味をもつもの。

つまり、この花火は、ただの鑑賞用ではないというのが大きなポイントです。

なのに、過去には、明治維新の年や第二次世界大戦の…贅沢は敵だ的な考えから中止になったり…。
戦後の平和の時代となっても、交通事情優先により、昭和37年(1962年)から、しばし開催しない時期も続いたり…。

実は、今のカタチで復活したのは、昭和53年(1978年)と最近です。

それでも、無意味に中止にしてはいけない行事のひとつであるからこその復活だったのは、2011年の東日本大震災後のこの行事の在り方が示していました。

多くの命が、水のチカラで持って行かれた2011年。
東日本大震災による自粛の波が、花火大会をはじめ多くの恒例行事を中止に追い込みましたが、隅田川の花火大会は、月遅れながらきちんと開催を果たしたのは、そのあかしであると思います。

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華やかな打ち上げ花火も、その技術は、戦国時代の申し子でもあります。

花火の材料である「火薬」は、まず、ポルトガル人によって火縄銃とともに日本に伝えられたもの。
それ以降の60数年は、日本の戦場でつかわれるものでしかありませんでした。

しかし、徳川家康が天下を平定して以降、戦のない時代が長く続くこととなり、火薬はぱったりとその出番を失います。

長い戦乱の世がなくなったのはすばらしいことですが、それまで戦地に火薬を供給しつづけてきた産地は、やや途方にくれたのではないでしょうか?
それでもやがて、平和な世の中に合う火薬の使用の仕方を考え、生まれたのが「花火」
それらの地は、花火の産地として名をあげてゆくようになります。

日本ではじめて花火を鑑賞したのは、もちろん時の為政者徳川家康。
見物した場所は、江戸ではなく駿府城、花火も日本産ではなく、海外から献上されたものだそうで、筒から火花が噴出すタイプのものを尾張、紀伊、水戸の御三家藩主とともに見物したといわれています。

花火を広めたのは、新しもの好きな江戸っ子

花火は、江戸っ子たちに非常に受けて、あっという間に流行になります。
やや凝り性気質の気がある江戸っ子たちです、その人気は高まりすぎて、幕府は何度も何度も「花火の禁止令」を出すにいたるほどにその流行はおおきくなってゆきました。

ひとたび火が出れば、江戸市中をくまなく燃やす大火となりかねません。
江戸市中での花火の製造禁止、売り歩きの禁止など、あの手この手で禁止令が発布されます。

しかし、雛人形に、端午の節句飾り…多くの江戸人の楽しみが、なんど禁止されようとも廃れなかったのと同様に、花火も江戸の夏の華として隆盛をきわめてゆくのです。
そして、江戸での花火の流行は、かつて火薬の産地だった、三河、北九州 信州の地の供給をうけとめてゆきます。

花火といえば「鍵屋」と「玉屋」

現代でも、打ち上げ花火に「たまやー」「かぎやー」と掛け声をかけますが、もともとこれは、花火を商いとする店の屋号です。

「鍵屋」は、線香花火などの玩具花火で大成功をおさめた老舗で、享保年間から始まった両国川開きの時は、6代目が幕府の御用花火師として登用されるほどに花火職人としての権威をたかめてゆきます。

「玉屋」は「鍵屋」の番頭だった花火職人が独立をゆるされ始めた店の屋号。
この両者がそろい、競い合うことで、鍵屋・玉屋の二大花火師時代を迎えることにもなります。

隅田川花火大会の前身である「両国の川開き」は両国橋を挟んで 上流を玉屋、下流を鍵屋が担当。

交互に花火が打ち上げられ、観客はよいと感じた業者の名を呼びました。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来なのだそうです。

しかし、玉屋はここぞというとき店から火事を出し周囲に延焼してしまいます。
失火は重罪だった当時。
玉屋の当主は、「財産没収」のうえ、江戸を追放されて、一代かぎりで消えてゆきます。

それでも、当時の花火師が切磋琢磨と競い合った時代を懐かしむように、隅田川の花火大会は、今も二箇所で打ち上げ花火が揚げられ、掛け声も健在。
ともかく、鎮魂の意味を持ち、さらにその背景にはさまざまな物語がいきづく歴史ある花火大会。

我が家の窓からは最後の、打ち上げ花火の鑑賞という贅沢を味わい尽くそうと思います。
…といっても、繰り返しますが、キャンディーサイズのささやかな贅沢なのですけどね。

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◆今日は、2014年7月26日/旧暦6月30日/水無月戊戌の日

◎隅田川花火大会の詳細情報はこちら→第37回隅田川花火大会公式サイト