故郷や どちらを見ても 山笑ふ
母の住む東北の街へ帰れば、四方は山。
先日、お彼岸で帰ったころは美しく晴れた日が続き、山はこんな風にクリアに見えた。
と、山並みを眺めつつ、浮かぶのは、正岡子規の一句<故郷や どちらを見ても 山笑ふ>
短い人生の中、膨大に詠まれた作品を、ちょっとした必要があって五月雨的にあちこちと読み飛ばし、偶然出会ったこの一句。
そしたら、教科書に出てたヒト、正岡子規が、俄然身近なひとに思えてしまった。
…それは、やっぱり、故郷東北の山の風景のせいだ。
子規の故郷は、四国松山。
私の山は、東北を貫く奥羽山脈。
ずいぶんと遠い場所にも関わらず、春を感じる感覚は十分に解る。
春の山は、やっと、長く気持ち良い眠りから覚めはじめたものの、いまなおまだ淡い眠りの中。
そして、ときどき、寝言のようにふふふっと笑う。
そんな風に見えてしまう。
つまり、我らは、豊穣なる田舎育ち同士なんだなぁ…と。
転じて、子規のこの一句が、山しかないこの町を、とてつもなくステキな場所だと教えてくれた。
「山眠る」冬から少しずつ目覚め、「山笑う」の春
子規の一句に使われた「山笑う」は、俳句の世界で、春の季語。
もとは、古代中国の山水画家・郭煕(かくき)という方による画論『臥遊録(がゆうろく)』の一文、「春山淡治(たんや)にして笑うが如く」からきた言葉だとか。
それこそ仙人でも住んでいそうな中国の巨大な山。
対して、日本の穏やかに連なって見える山脈。
それが、同じく春になると笑って見えるのは、どんな場所でも風向きが春風に変わり水がぬるんでくれば、木々の芽吹きあって、それが、ゆるりゆるり山々を萌黄色に染めてゆくからでしょうか。
そこに時々春霞でもかかってぼんやりと見えれば、ますますうららかで喜ばしいかも。
つまり、こんな風かな?
この写真も同じ町から臨んだ山。
4月も中旬ごろの光景ですが、初夏近い春になれば、さすがの北国でも、山ははっきり笑い始めたように見えます。
…って、見える?
郭煕の『臥遊録』には続きがあって…。
ここに書き写せば、
「夏山蒼翠(そうすい)にして滴るが如く、秋山明浄(めいじょう)にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如く」
夏には木々の葉が青々と茂り、その瑞々しさで、山は水が「滴る」ように見える。
秋には、葉っぱが、赤や黄色に色をそめて山は美しく「粧う」。
冬になれば次の季節のためにすべての生命が眠りについて山は「眠る」。
そして、今まで「眠っていた」山が、ある日「笑っている」ように見えたなら、春。
その有様が喜ばしくて、山々を眺める人間のほうも、自然と微笑んでいる。
ああ、春はいいものですね。
ちなみに、「山滴る」は夏の、「山粧う」は秋の、冬には「山眠る」が、「山笑う」の春に並んで、各季節の季語として多くの俳句に詠まれているそうですよ。
…というコトで、今日は、ビルしか見えない都会にて、雄大な春の山々などを想像してみました。
◆今日は、2015年3月30日/旧暦2月11日/如月乙巳の日
◆日の出 5時32分 日の入18時00分/月の出13時25分 月の入 2時22分